王様の耳は驢馬の耳

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「正統とは何か」を考える

ギルバート・ケイス・チェスタトンの「正統とは何か」を以前に首を傾げながら読んだ。以下は有名な一節であるが、やはりどうしても引っ掛かるのである。

 つまり、伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。

伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。

単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。

伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。

伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の下僕であっても尊重する──それが民主主義というものだ。

正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の父であっても尊重する──それが伝統だ。民主主義と伝統──この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。二つが同じ一つの観念であることは、私には自明のことと思えるのだ。われわれは死者を会議に招かねばならない。

古代のギリシャ人は石で投票したというが、死者には墓石で投票して貰わなければならない。これは少しも異例でも略式でもない。なぜなら、ほとんどの墓石には、ほとんどの投票用紙と同様、十字の印がついているからである。

しかし伝統を背負わぬ大衆をチェスタトンが言うように「畏怖すべき権威」とは考え難く、民主主義と伝統が同一の観念であると言う彼の考えは現実と乖離している。伝統を背負わぬ者こそ多数派であるからだ。

民主主義は数の原理である。過去の記事でも触れたが、多数決は人間の意志を欠いた反故であると、小林秀雄は述べている。

bambawest.hatenablog.com

 「正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の下僕であっても尊重する」のであれば、多数決がその正しい意見と対立したならチェスタトンはどうするのか。世の常として正しい意見は少数派に多い。

しかしもう少し考えてみたい。チェスタトンの言う「伝統」とは、

  • 選挙権の時間的拡大と定義
  • 民主主義を時間軸に沿って昔に押し広げたもの
  • 祖先に投票権を与えること

であると述べる。そして「民主主義の原則」とは、

  • 人間に共通な物事は、特殊な物事より重要
  • 政治も人間に共通な物事の部類に入る

その「信条」は

  • 最も重要な物事を平凡人自身に任せよ
以上を総括すれば、人間共通の本質的な重要事は政治である。従ってそれは祖先を模範に政治を平凡人に任せよ、ということであろう。一理ある。が、もう一歩考えてみたい。

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チェスタトンは「正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の下僕であっても尊重する」と述べた。これは平等を指すのだ。更に「正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の父であっても尊重する」のは生者に対する死者の権利の対等を言っているのである。
つまりチェスタトンは民主主義とは平等を原則とし、民主主義と伝統は平等の観念において同一であると言いたいのだ。では生者と平等に死者に選挙権を与えるとどうなるのか。
洋の東西に関わらず、伝統的に政治に無知な大衆は、政治を王侯貴族に委ねてきた。民主主義を祖先に適応すれば、大衆は選挙権は放棄せねばならない。民主主義は伝統とは対立するのである。

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約言すれば、民主主義は「今の人間が投票権を独占する」、「生者の傲慢な寡頭政治」であることを前提としなければ成り立たないのである。彼の伝統の観点から平等に祖先に選挙権を与えれば民主主義は崩壊するのである。
 彼の中に於いては人間共通、普遍的な物事(政治)は平凡事であり、平凡なる大衆と死せる大衆との間に隔絶はなく、少数派と多数派の対立の問題は多数派が正しいと言いたいのだ。そうであるならこれは全体主義に繋がるものである。