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日本資本主義の精神を読んで その壱

「日本資本主義の精神」は昭和54年に刊行された。著者の山本七平は日本の資本主義の精神的原型を江戸時代のサラリーマンにあるとしている。故に江戸時代を知ることが現代を知ることになると述べる。本著では江戸時代サラリーマンの精神構造の形成に影響力を振るった者として、鈴木正三と石田梅岩を取り上げている。今回は日本の会社の構造に関して引用を交えつつ紹介したい。

【新装版】山本七平の日本資本主義の精神

【新装版】山本七平の日本資本主義の精神

 

 

 山本氏は少々奇妙な言い方と断りを入れながら、日本の資本主義を「企業神倫理と日本資本主義の精神」という形で解明されるべきであるとする。この企業神倫理とは、企業における神棚的なもの、あるいはそれに代表されるある種の宗教性というべきもので、それは強固な共同体であることを示すのだという。

その基本は機能集団と共同体との二重構造にあるとし、少々抽象的表現だが、

これが、社会構造により支えられ、さらに、各人の精神構造は、その社会構造に対応して機能している。これを無視すれば、企業は存立しえない。

社会構造は、「血縁社会」と「地縁社会」との二つに大きく分けられるとする。しかし小室直樹氏は日本は血縁社会ではなく「擬製の血縁社会」であり、一種の「血縁イデオロギー」であると述べる。擬製であるから血縁の如く作用するためだ。

純然たる血縁社会とは、この原則が社会のすべてを律し、その原則で歴史が形成されている社会である。……日本は昔からそうではない。血縁のように見られるものに非血縁的要素が入ってくることを誰も不思議に思わない。

例えば婿養子の制度は純然な血縁社会ではありえない。従って家族は血縁ではなく一種のイデオロギーだと看做している。その証拠として戦前と戦後の父親の権威が、妻や子供より弱くなったことを例に挙げているが、少々例えが悪い。

補足すれば、鎌倉時代までは婿入婚によって母系家族を形成していた日本では、婿養子は自然な制度である。ここに政治的イデオロギーは存在しない。あるのは「家」の制度であり、父であろうと母であろうと「家」の一構成員に過ぎず、血縁はある程度までしか影響力を及ぼさないのであろう。

さて、次に地縁社会とはどのようなものか。

地縁社会というのは、氏素性に関係なく、地縁だけによって、「新種族」を生み出す社会

であり、さらに

その他の共同体に対して一定の義務をはたせば、その民会(教会)の一員と認められ、その権利を行使できる社会である。

それは「新種族」の創出であり、血統的系譜に基づく特権は主張できない社会でもある。しかし日本にはこの要素も全く無く、もしあったのなら、鎌倉時代に「新種族」が天皇*1廃止に進んだであろうとしている。

なぜそうなるかの詳しい言及はないが、おそらく血縁社会を形成していた皇室を、地縁集団である鎌倉幕府が、地縁社会による新秩序の障害になるためだと考えたのだろう。しかしそうならなかったのは日本社会が「純然たる地縁社会」でなかったからだと言いたいのだと考える。

純然たる地縁社会でないとは言え、地縁社会の要素が全く無いとは断じ難いのではないか。もし鎌倉幕府が宗教的地縁集団であれば、天皇制を廃止にしても怪しまないが、朝廷と鎌倉幕府が争ったのはあくまでも覇権であって、宗教的権威にまでは及んでいない。

尊王思想は源頼朝にせよ、北条時政・義時にせよ、時の権力者には共通して持っていた。従って地縁集団である鎌倉幕府が血縁集団の朝廷を倒しても、天皇制廃止など考えも及ばなかったはずである。故に天皇を廃しなかったことで以って、地縁社会的要素が日本に全く無いとは言い難いのではないか。

取り敢えず話を進める。血縁集団は血統を失えば消失し、地縁集団は地を失えば崩壊するが、山本氏はこれらどちらとも判別がつかないものとして、藩閥を挙げる。廃藩置県により藩を失った後、血縁者が居なくても存続していたのは、擬製の血縁共同体に転化したからである。詰まるところ藩閥が機能すれば共同体が生じ、また藩閥を機能させるには共同体にしなければならないということである。

これは会社にも同様のことが言えるという。

会社が機能すれば、そこに会社共同体を生ずるし、また会社を機能させるには、それを共同体にしなければならない。したがって新入社員の採用試験や入社式は、共同体加入のための資格審査であり、また通過儀礼である。

 地縁集団が「新種族」になるように、新入社員も新たな「会社種族」にならねばならない。そのための通過儀礼であり、また共同体への加入であるから雇用契約ではない。追放されない限り終身雇用になるのは当然である。故に終身雇用契約は日本において存在しないのはそのためであるという。そして機能集団としての功績が共同体としての序列に転化される。

終身雇用は解雇を前提としないし、解雇はすべて「不当解雇」とされても当然であると言える。「正当解雇」は「非種族」である派遣やアルバイト・パート等に認められる。

同一の会社内にいても、この会社種族と非種族は、まるで血縁社会における血縁と非血縁のように、峻別される。終身雇用や年功序列は、会社種族にだけ適応される共同体の原則だから、それ以外の者には適用されない。

新入社員は血縁社会の新生児のように、入社した時からすべての基本的権利を与えられるのである。ところが非種族は何年勤めようと、どれほど優れた仕事をこなそうと、血縁社会における血縁者のようには扱われない。この差別は当然のこととされてきたのである。

会社から解雇されてすっかり自信を喪失してしまう人が少なくない理由もここにある。つまり会社をクビになるということは、共同体からの追放を意味し、解雇された人間性の一面、乃至全面的人格否定の意味を含むからである。故に希望退職という自由意志による退職という形をとるのだという。

 すっかり文が長くなってしまった。江戸時代の鈴木正三と石田梅岩については次回に譲りたい。

*1:この名称は正しくない。正確には「天皇の制度」である。天皇制とは民主主義国家において、国民が天皇制を採用した場合にその名称が認められるのであり、天皇は国民が投票で選択した存在ではない。明確に誤った呼び名である。