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現代日本と町人根性 その壱

三回に渡って山本七平氏の『日本資本主義の精神』を取上げ、鈴木正三と梅田梅岩の二人を通して江戸時代の資本主義の精神を見てきた。今回はこれに痛烈なる批判を加えた和辻哲郎氏の『続日本精神史研究』を紹介したい。

 

『続日本精神史研究』の中に収められている「現代日本と町人根性」の中で和辻氏は梅田梅岩に代表される当時の「町人根性」を以下のように定義する。

町人根性とは本来ただ町人の根本的性格あるいは町人のこころ(すなわち町人精神)を意味する言葉

 とし、営利を絶対目的と定め、そのための主要な徳は「利害打算」「勤勉」「倹約」「才覚」などとした。であるから、智慧や道徳は利得のための手段に過ぎない。三井高房は『町人考見録』の中でこう述べる。

商人は賢者になりては家衰う。天下を治るに王道覇道あり。王者は戦いを好まず我為にせずして、ただ天下の為人のためにす。是王道なり。覇者は仁義を表にかりて、家のため身のためにす。これ覇道なり。……一日も仁義をはなれては人道にあらず、然るとて算用なしに慈悲過たるも又愚なり。仁義を守り、……商に利有るやうに心得べし。

 智慧も道徳も決して軽視はしないが、利がない慈悲は痴愚であり、儲けざるは商人の道にあらずという梅岩との思想に共通する。智慧も慈悲も絶対的な徳ではなく、相対的であるというわけである。但し、営利が絶対目的であっても本来ならば社会秩序が最終目的なはずで、本来の手段的性格を没することができない。その手段的性格は何を目的とするのかといえば、和辻氏いわく、

営利を絶対目的とするというのは、家の幸福を絶対目的とするということである。すなわち家の利己主義である。

本来営利は「欲心」を否定し社会秩序に寄与するための手段的性格を持つはずが、逆に「欲心」の自然的充足、つまり絶対目的の「家の利己主義」のための役立つ手段としての性格を無くすことができないのである。

「利」とは自己幸福の意味に於ける「利己」であると同時に金銀の「利子」でなければならない。ところでこの矛盾、すなわち手段的なる営利が同時に絶対的目的であるという矛盾は、「家」の立場において統一せられているのである。

「利」である以上「利己」からは切り離し難い。が、それでは「奢り」は抑えられない。故に「倹約」を励行し、ある程度の自己犠牲の道義を説くが、それでも「利」は「利」であり、「利己」の範囲を出ない。従って「町人心」乃至「町人根性」が当時賤しいとされる所以がここにある。

町人根性が蔑視せらるべきものとせられたゆえんは、町人根性が道義を手段とし自家の利と福とを目的とするという点にある。

しかし、これの何が賤しいのか。梅岩の言葉を再掲する。

我が物は我が物、人の物は人の物。貸したるものはうけとり、借りたる物は返し、毛すじほども私なくありべかかりにするは正直なる所也。

 これに対し和辻氏はこう述べる。

我が物は我が物、人の物は人の物とするのが社会的正義であって、社会の全体性への奉仕は顧みられない。これは全体性のために自家の利と福を犠牲にするという武士道階級の理想から見れば、明らかに価値の逆倒である。商売の用は有無を通じることによって全体に奉仕するにある。この本来の意義を忘れて利を得ることを目的とするならば、それは私欲であって道ではない。

 と、なかなか手厳しく批判する。梅岩は「正直」な商いからの「利」は「天理」であると言っているが、当時の商人はまさに暴利を貪っていた。その好例が今でも名を残す淀屋橋で知られ、その橋を自費で架けた豪商淀屋である。闕所処分を受けたときには、その総資産は現代の金額に換算すれば、百兆円にも上ったという。今日の日本の国家予算に匹敵する。

 一つの事例でもって全体を語るのはまずい手法であろうが、「正直」なる商いは無制限の「利」の追求に対してなんらの抑止にならないことの証左であろう。例えば、商人の「正直」から来る相場の変動も「天理」であり、利ざやを稼ぐことを是認する。つまりこの「正直」は町人限定の徳であると言える。

 

【新装版】山本七平の日本資本主義の精神

【新装版】山本七平の日本資本主義の精神