王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「戦争学原論」を読んで その参

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今回も前回同様「戦争学原論」を扱う。

さっそくだが前回の続きをしたい。

 戦争の「紛争解決機能」による逆説的平和

国際政治学エドワード・ルトワックは、紛争や戦争がPKOの平和維持活動などの外部からの介入によって中断されず、十分に戦い軍事的に決着がつけば、その後の和解策などが講じられ平和が訪れるという主張である。当然多くの血が流れるようが、途中で休戦や停戦などで中断され一時は平和になったとしても、非常に不安定な状態のため再開される事が多いので、長期化するよりかは流れる血は少なくて済むという考えである。

戦略より兵站(ロジスティクス)の方が遥かに重要

こう述べたのはマーチン・ファン・クレフェルトである。「戦争のプロは兵站を語り、素人は戦略を語る」と言われるほど戦争において兵站は重要であり、戦争の様相は戦略よりも「兵站支援限界」によって規定されており、それは昔も今も変わらない歴史的事実であるという。ソクラテスの弟子だったクセノポンはその備忘録のなかで、指揮官の能力のうち戦術より兵站が最重要であると語った師の言葉を残している。

どれだけ立派な戦略を考えたとしても、その基盤である兵站をおざなりにはできない。戦略がキャンバスに絵を描くことならば、兵站はキャンバスの大きさを規定するものなのである。

総力戦が社会を変革する

歴史家アーサー・マーウィックは文化的事象である戦争という非合理な事象が総力戦を戦い抜くため、合理化および効率化され、さらに近代化を推し進める場合さえあると主張する。軍事史家イアン・ベケットも「戦争はそれがいかに嘆くべきものであろうと、厄難という観点からのみ考えることは間違っている」と述べている。

フランス革命以降の戦争はその手段も目的も拡大し、二つの世界大戦では戦場だけでなく国家全体とその士気にまで戦争は拡大し、前線に対し銃後の重要性が相対的に大きく増した。ゆえに非戦闘員であるが軍需工場の女工にも、前線の兵士と同等の権利、つまり参政権が認められる契機になった。社会的に劣位にある人びとは政治的責任を負うべき立場にないため、戦争、特に総力戦において積極的に参加する動機に欠けるのだが、政府は優劣の差別なく国民全体を均質化し統合することで、戦争遂行に必要な社会的機能の担い手とした。私見だが、戦争が民主主義や平等思想を推し進めたといえよう。

「軍事上の革命」は技術への傾倒であり、軍事技術の影響はあくまで副次的

軍事上のソフトウェア、ハードウェア両方面の著しい発展を一括して「軍事上の革命」というが、それが本当に「革命」的な変化であるかはまだ判断できない。この文句に関わる議論が技術面に偏向しているために、社会的文脈の下で捉えようとする視点が欠けていると石津氏はいう。さらに歴史上、核兵器を唯一の例外として除けば、技術それ自体が戦争の様相を変化させた影響は、小さくはないが副次的だと述べる。

第一に技術の限界として、直ちに模倣され対抗手段を生み出されてしまうという点がある。次にいわゆるパラドックスの問題、つまり、一国の技術が進めば進むほど、遅れた国は逆に、より原始的な兵器で、より原始的戦争方法で対抗を試みるはずである。好例としてベトナム戦争のゲリラ戦がある。次に技術の発展がむしろ逆に戦争遂行の障害になり得るということである。技術が戦争を単純化するはずが、却って複雑化させてしまう例として、戦争の情報化からくる情報量の多さがむしろ混乱を招くこともあるということが挙げられる。

 

戦争学原論 (筑摩選書)

戦争学原論 (筑摩選書)