王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「戦争文化論」を読んで その二

今回もマーチン・ファン・クレフェルトの「戦争文化論」をとり上げたい。前回不愉快に思った方は読まないことをお勧めする。おそらく今回も、おそらく前回よりもっと不愉快になるだろうからだ。

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楽しくなければ戦争ではない

戦争、特に戦闘は、人間が参加できる活動のなかでも特に人々を刺激し興奮させるものである。これに太刀打ちできる活動はない。その刺激と興奮は純粋な喜びに変わることが多い。

戦闘とは自分と同様に力強く知的な相手と、生きるか死ぬかの命がけの活動であり、死を厭わない希少な活動であるという。確かにこれほど刺激的で興奮するものはないが、果たしてこの活動が、つまりは殺し合いが「純粋な喜び」になり得るのだろうか。おそらくほとんどの人は殺し合いの活動である戦争は悪だと答えるだろう。しかし人は戦争を待ち望み、大いに楽しみ、終わったあとは誇りと満足の念で振り返るのだという。

戦争は喜ばしいものだ。

ジャン・デ・ベイユ(百年戦争時代のフランス海軍提督)

戦争が恐ろしいことはいいことだ、さもなければ我々は戦争を好きになりすぎてしまう。

ロバート・E・リー(南北戦争時代の南部連合軍司令官)

私は軍人の仕事が熱烈に好きだ。

アドルフ・ヒトラー(ドイツ首相)

俺はどれほど戦争が好きなことか。

ジョージ・パットン(アメリカ陸軍大将) 

戦争よりもわくわくするものはない

モーシェ・ダヤン(イスラエル国防軍中将、片目のダヤン)

我々は偉大な時を過ごした、そうじゃないかね?(第4次中東戦争について)

アリエル・シャロン (イスラエル首相)

自分の体を曝して緩歩前進で進むとき、尋常ならぬ歓喜を感じる。

ウィルフレッド・オーエン反戦詩人)

もし戦争が楽しくなければ、戦争を遂行する目的のなかに大きく間違っているものが何かあるだろう。

エドワード・ルトワック(アメリカ歴史学者

ここで指摘すべきは同一人物の中に戦争に対する嫌悪と歓喜の、ある種対立する感情を往々にして同時に持っているというクレフェルトの主張である。この戦争に対する嫌悪と歓喜の感情はコインの裏表のように分かちがたいものだという証拠であるとする。第一次世界大戦に参加したオーストラリアの退役軍人が人生でもっとも楽しい時期は、塹壕で篭っていたときだと答えたという例も挙げている。

クレフェルトは戦争と戦闘が本格化すると人々は通常の行動基準が中止され、別の世界に入っていくと指摘する。戦争開始以前はもっとも重要だった事柄が忘れ去られ、人々を拘束していた常識や慣習などから解放されるわけだが、これは戦士以外の銃後の人々にも同様のことが言える。そして、敵の抵抗を圧倒する格闘の喜び、これは次に挙げる二つのものを生起する。

殺人の喜び

一つは上述したように、人間にとって地球上もっとも恐ろしい敵である人間と戦うということ。二つ目に、これは戦争独特のものだが、人間同士が対戦する戦略ゲームで唯一禁止事項が一切なく、人間の能力のいくつかではなくすべてを要求するゲームであるということである。死の危険が目前に迫るとき、人は全個性を総動員するが、一方で不要なものはすべて捨て去り、異常なる集中が生じる。それによって快活と自由と集中が入り混じった、まるでジェットコースターに乗っているような快い陶酔を体験するのだという。上述したことを視野に考慮すれば、死に立ち向かう喜びはこの世の最高の喜びの源になり得ると述べる。

ならば戦闘の別の側面である人を殺すことについてはどう考えるのか。ある人によれば殺人は人間本性に反した行動であると主張する。しかしクレフェルトは、多くの狩りをする動物が殺すことを楽しんでいるかのように、人間、特に男性にも狩猟の喜びが遺伝的に組み込まれているのだという。殺しが楽しくなり得るのは抵抗に打ち勝ち、力の表現としてこれに優るものがないからである。さらに彼は殺人という行為には、しばしば性交することと似ていると多くの人が書いていることを挙げる。多くの文化では兵士に戦争中は性交を控えるよう要求したのだそうだ。

そしてまた、これらの流血沙汰にはそれを注視している観衆がいるということである。実際の殺人現場かテレビや映画かに関わらず、その実態が過激であればあるほど観衆のどよめきは大きくなる。彼らがこれを楽しむのは残虐だからなのではなく、好奇心と恐怖心からくるもので、我々はいずれは死に直面するがゆえに、相手に死を科し、相手から死を科される様子を見ることは一種の心理療法になるという。

破壊の喜び

子供が積み木で組み立てることと同じくらい壊すことが好きなように、大人も同様にこれを楽しむ。クレフェルトは大抵の破壊はありふれたものだが、稀に破壊の計画に費やされた想像力と、実行の際の怒りに対して感嘆せざるを得ないほどの技能的に高度な破壊もあると主張する。彼は殺害も破壊も、憎悪と復讐から生じたものだと言うが、正確な原因はわからないとしながらも、戦争における憎しみが一定の役割を果たし、非常に強力な感情であるためにしばしばそれが理性の統制を離れ、分別のある人間でも狂人のようになってしまう。そして上述した「快い陶酔」状態に入り、激しい怒りに襲われ、激しく快活に戦う陽気な人間になると述べる。

戦闘の動機は利益ではない

これは狂気であり目的を追求する過程で発現したものであるが、目的は利益とは別物であると指摘する。利益は戦争において重要ではあるが、明日ともしれぬ兵士にまでその利益が行き渡らないこともある。死んでしまっては戦争に勝利したとしても、その利益に与りようがないからだ。であれば戦う目的は自分自身より重要で高貴で、理屈で理解できる以上のものでなければ、命をかけるほどのものになり得ないし、心に食い込み支配するものでなければならないという主張はもっともだ。狂気を纏うほどの強力な動機ではあっても、目的があるという点で狂人ではないということである。

団結の喜び

上記は個人についての事柄だったが、戦争は集団的活動であり、個人の活動ではない。外圧がかかると人々は個人的利益の追求をやめ、素早く一つにまとまる。外的・内的の二つ要因によって団結すると人々は自分より大きく強力な何かの一部にであると感じたとき喜びを感じるという。アメリカ歴史学者ウィリアム・H・マクニール は、

教練につきもののなかなか終わらない一斉行動によってわきあがる気持ちは言葉ではとても言いあらわせない。私が思い出すのは身体中に広がる幸福感だ。もっと具体的に言えば、集団で行う儀式のような行動に参加させてもらったおかげで、実際の自分より大きくなったような感じがした。

これは団結以上に戦闘能力を増進するものはなく、逆に団結がなければ戦争はできない、ということ示唆するものである。