王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」を読んで その四

最後にするが、今回もロジェ・カイヨワの「戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ」である。前回までに書いておきたかった事はほとんど書いてしまったので、今回は備忘録として気になったいくつかの箇所を書いて終わりにしたい。

f:id:bambaWEST:20170804161919j:plain

戦争目的と手段の逆転

クラウゼヴィッツは国民総武装というこれまでの貴族的戦争形態から脱して、純粋な形態に到達したと考えた。要するに戦争自体の本性が戻ったというわけである。そのため戦争は本来持つ力のすべてを発揮するようになったが、同盟、通称、国際的な義務などの制約が課せられている。したがって不完全な形で終息する可能性はあるが、利用できる手段と優位性とをすべて使い切りたいという誘惑に駆られ絶対戦争へ近づいていく。

しかしクラウゼヴィッツは戦争を目的から切り離して考えることは不合理だと感じていたようで、勝利で得られる価値に戦争の激しさは比例し、それを超えないと考えていた。だが後に彼の後継者たちは、戦争は目的の価値に比例したものではなく、相手がこちらを凌駕しようとする以上、こちらも相手を凌駕しなければならないという一つの基準しかなくなったと主張した。要約すれば手段が目的から離れ、目的そのものになった、ということである。

ドストエフスキーの尚武の思想

ドストエフスキーは「逆説的人間」の中で、

そうだ!流された血が偉大なのだ。われわれの時代には、戦争が必要である。もし戦争がなかったら、世界は瓦解してしまうだろう。あるいは少なくとも、壊疽にかかった体から流れ出す血膿のようなものでしかなかったろう。

と述べ、戦争は犠牲的精神を高揚するため良いものだとした。そしてさらに科学や芸術に貴重な刺激を与え、社会の老衰を癒やす欠かせない薬であるという。しかし平和は人間を貪欲で凶暴かつ野卑なものにする。名誉を軽んじ、表面的な言葉と仕草だけを残す。平和のなかで生まれてくる戦争の動機は、どれもくだらないものばかりで、市場獲得のための経済抗争であり、持てる者が新たな奴隷を集めるための抗争などがそうである。

しかし平和のうちにあっては卑小な者も、戦争が彼らを偉大さへと導き惨めな状態から救い出してくれる。そこでは偉大な者も卑小な者もみな平等であり、互いを知り、相手を尊ぶことを学ぶ。高尚な理由から企てられた戦争は国民を一つにするものである。

一般人も軍事目標

 

核攻撃が大規模破壊を目的とするため、その犠牲者は軍人と非軍人の差別はない。一般人も殺されるというだけでなく、彼らも爆撃の標的になっているのである。敵にすれば誰であれ兵士と同等に危険な存在なのである。なぜなら労働者は兵士として戦うよりも、工場などで働いたほうがより効果的に戦争に貢献できるためである。チャーチルは「一般人の士気は軍事目標である」と言ったが、カイヨワは生命を士気に言い換えたに過ぎないとしている。

無個性な戦争

カイヨワに従えば、現代の戦争は極端に言えば、生産、運搬、破壊であるという。もはや戦闘は行われなくなってしまったということである。科学と工業が戦略の効果を最終的に決定し、敵対行動は兵士対兵士ではなく、発明家対発明家、研究所対研究所などの抗争になっている。

 

戦争論 〈新装版〉: われわれの内にひそむ女神ベローナ (りぶらりあ選書)

戦争論 〈新装版〉: われわれの内にひそむ女神ベローナ (りぶらりあ選書)