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「戦争の変遷」を読んで その二

戦争とはどういったものなのか。クラウゼヴィッツの「戦争論」によれば、限界のない暴力の行使である。先の大戦を知る我々にすれば当然のことのようにおもえるが、それは現代戦である総力戦の凄まじい暴力にすっかり慣れてしまっているからだろう。前回でも触れたが、国民、軍隊、政府を土台とする三位一体戦争はナポレオン戦争から端を発する近現代の戦争は、数ある戦争の一形態に過ぎないのである。

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暴力は徹底的に行使すべき

クレフェルトクラウゼヴィッツの「戦争論」を読む際には、当時の歴史的背景を考慮した上で読まれるべきだという。当時ナポレオンの軍事的成功を秘密を解き明かそうとして、それを多くの人が試みた。一般にはナポレオンの戦略に秘密解明の鍵を求められたが、クラウゼヴィッツはそうではなく、戦争とは何なのかという視点で考察した。フランス革命から国家意識が民衆に生じ、国民となった民衆と軍隊とが強い紐帯を持つようになると、軍事的な目的は国民の国家意識と不可分の関係になったためだと考えた。

この凄まじい暴力に対抗するには暴力以外に他はない。ゆえにより徹底的に暴力を行使する側が優勢を得られるのであって、そこに戦争は最小限の暴力で遂行すべきだ、などという暴力の徹底的行使を抑制するような人道主義など持ち込むべきではないと警告している。彼にすれば戦争法規は「自ら課した抑制であり、言及するだけの価値はない」のであるが、クレフェルトはこれは間違いだと指摘する。

確かに現在の戦争法規は破られることは少なくない。しかし歴史的に原初の時代においても戦争の始め方と終わらせ方、戦時中の和平交渉、休戦の方法、非戦闘地域の設定などを試行錯誤を繰り返していた。戦争法規のもっとも重要な目的は軍隊自体を守ることであり、クラウゼヴィッツやその信奉者らが考えていたような人道主義者を慮ってのことではない。戦争は恐怖の支配する領域であるため、普段冷静な人間でも混乱し協調性を失う恐れがあり、組織としての機能を阻害してしまう。協調性を失った軍隊は暴徒であり、堅固な軍隊に遭遇すればひとたまりもなく蹴散らされる。ゆえに、共通の行動規範が必要であり、それは普遍的かつ実行可能なものでなければならない。

戦争法規の必要性はそれだけではない。どの社会においても殺人は重大な犯罪であり、戦争ではそれが許されるという区別は、時代や社会によって振れ幅は大きく異なるとはいえ、絶対に必要なものである。

最後の機能として勝敗を確定することが挙げられる。ほとんどの紛争では敵を全滅させるまで戦うことはなく、それはどうすれば勝ちで、どうなれば負けというルールがあるためである。

非政治的な正義の戦争

クラウゼヴィッツ的戦争観が時代遅れになりつつあるとこれまでの記事で触れてきた。その最たる理由として、戦争が目的達成のための外交とは異なる政治的な一つの手段 であるという彼の見解では説明がつかない戦争が多いからである。むしろ歴史的に見れば、クラウゼヴィッツ的戦争はナポレオン戦争から始まり、第二次大戦までの総力戦の時代に限って彼の主張はよく適合するのである。クレフェルトは、戦争は国家が支配する道具であるという見解は、国家を支配者に代えてもルネサンス期までしか遡れないだろうとしている。

一五〇〇年頃から前の千年間は政治は力ではなく正義が支配する時代であり、正義は神から由来するものであるから、少なくとも政治はこれに基づくべきだとされていた。それゆえ戦争は政治ではなく正義の戦いであり、たとえ利益のためであってもそれを表明することはあり得なかった。戦争における正義と不正義の区別の基準はキリスト教とローマ法であったため、このような戦争観では戦争終結時には同害報復が発生する。ローマ軍がたびたび都市を破壊し住民を虐殺したのはこのためである。

五世紀ごろになると戦争における正義の意識はますます強まる。戦争が正義を促進する手段として貢献するのであれば、それに適った趣意と手段を持った専門家に委ねられるべきだと考えられたからで、それがのちに騎士を誕生させる。騎士同士の戦いは互いの正義を競うための戦いで、そこに労働者階級の大衆は参加資格を持たないため理屈上は戦争とは無縁であった。

彼らを戦禍から守ろうとする取り組みは十世紀末頃からで、徐々に広まりを見せるが、生産に携わるものを保護するよりも略奪するほうが大抵は手柄になった。そして一般大衆を相手とした戦いは騎士同士の戦いとは違い、戦争とは見做されず代用品のような類のもので、むしろ正常なことと見做されていた。しかし、限度を超えた乱暴狼藉、例えば教会への略奪、貴族女性の強姦などは裁判にかけられた。

当時の人々は戦争を法的な行為と見做し、勝利に価値を与えるため交戦する際には同条件で戦うことが必要であり、そのためには戦術上の優位を放棄するべきであるとさえ考えていたようだ。つまり決闘の延長なのである。このことからも現代戦とは類似性は見当たらないし、現代の戦争観が唯一の見解ではないことを明らかにするうえで役立つとクレフェルトは述べている。

非政治的な宗教戦争

旧約聖書に描かれる民族間の戦争は、各々が崇める神々の優位と劣位を定める戦いでもあった。ゆえに戦争を宗教の道具と見做しても、なんらの不思議もない。神が命じた聖戦の目的は根絶であり、敵であれば女であろうと子供であろうと容赦はなく手にかけ、神に捧げる貴金属以外の財物はすべて焼かれた。これとは別の世俗的な戦争では開戦前に敵は降伏する機会が与えられるが、申し出を受け入れるなら、それに感謝して奴隷にならなければらず、断るのであればイスラエル人は通常通り戦う権利を得た。その際に敵の男は全員殺されるが、女と子供を生け捕りにし、戦利品を得ることも許されていた。

初期のキリスト教は流血と戦争に否定的であったが、ローマ帝国内で影響力を強め、コンスタンティヌスが公認したあとは手のひらを返す。司祭たちはキリスト教徒であり、かつ神が指名した地上の代理人たる皇帝に異邦人が服従しないことを問題とし、神の敵と見做したため彼らとの戦いは聖戦となった。そうである以上この戦いは神聖な義務であり、キリスト教に帰依しない者、つまり異邦人はもちろん、異端者や異教徒は皆殺しの対象になった。

この信仰のための戦争は中世末期の一五世紀に入っても衰えるどころか勢いを増した。新大陸を発見したスペインとポルトガルは銃をちらつかせつつ先住民らに改宗を迫り、受け入れない場合は滅ぼした。ルターがウィッテンベルク市の教会に九十五ヶ条の論題を打ち付けてからウェストファリア条約締結までの一三〇年の間に、カトリックプロテスタントは互いの聖戦を貫き虐殺を繰り返した。クレフェルトは開戦の動機で見る限り、と条件をつけながら、宗教戦争は近代初期までのヨーロッパにおいて重要な形態あり続けたと述べている。ウェストファリア条約からのちは宗教の力は衰え続け、一七世紀後半以降の近代国家群は宗教の名のもとに戦争はしなくなった。しかしイスラム教国圏は、たとえ世俗化を表明する国でも、未だに戦争を宗教の道具とする意識を保持していることに留意すべきであるとクレフェルトは説いている。

戦争の変遷

戦争の変遷