王様の耳は驢馬の耳

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「戦争の変遷」を読んで その三

これまでの議論の前提に、戦争はなにかのために行われるという仮定がある。つまり戦争とはある目的のためにする一手段であるというクラウゼヴィッツ的立場にたった議論であるとクレフェルトは指摘する。しかし戦争の目的は多種多様であり、世俗的利益と抽象的理念とが複雑に絡み合い、容易にこれらを分類することを許さない。が、ここでクレフェルトはもっとも重要な戦争形態が抜けているという。それは共同体の生存を懸ける戦争である。

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非政治的な生存戦争

生存か滅亡かという極限の状況に真っ向からぶつかる場合、戦争が政治的利益のための道具であるという考えが通用しなくなり、生存即戦い、戦い即生存と目的と手段が区別ができなくなる。戦争は政治と一体となり、生存以外のなにかに「使われる」ことも「役に立つ」こともない。そのような戦争としての暴力の爆発は生存そのものの最高の証であり、生存を称えるものとして理解すべきだとクレフェルトはいう。

存亡をかけた戦いは費用対効果の打算的な考えが逆転し、戦闘による死傷者は「損失」ではなく、むしろ「利益」の台帳に登記されるようになる。さらにクレフェルトは、生存の必要の前には法も無力であるから、戦争法規を破って無制限な暴力行使の権利を確信するという。しかしマッカーサーも認めたように大東亜戦争は明確に自衛戦争であったし、それを戦った旧帝国陸海軍は、戦争法規を最後まで遵守したことには言及しておきたい。

繰り返しになるが、政治の延長とするクラウゼヴィッツの戦争観でもって歴史的事実を説明しようとすれば無理が生じる。紛争の重要な形態である存亡を懸けた戦いの実際と、彼の見解との間には大きな隔たりがあるのだ。この種の戦争は政治的合理性を無視するもので、もし仮に政治的利益を重視すれば敗北の必須条件になり得る。クラウゼヴィッツは戦争での戦闘や流血は、商売での現金支払いのようなものと隠喩を残しているが、クレフェルトは自国の軍隊を合理的に利用できると考えている人たちが学ぶべき教訓として以下を述べている。

利益を重視する戦争の力は限られており、当然ながら、それを政治目的を達成するための手段ではない戦争と対抗させると、多くの場合敗北を招くだけである。

戦争の変遷

戦争の変遷