王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その二

前回は行為する「個人」は人間の全体性の否定としてのみ成立し、人間の全体性は個別性の否定によって成立する人間の二重性を見てきた。さて、近代の個人主義哲学者はこの「個人」の個別的実在性を追求し、人間の共同性を洗い去った先に到達したところを見てみたい。

和辻は「我々の意識のどの相を捕らえてもそれが本質的に独立であると言い得られるものはない」と断言する。個人主義哲学者の言う「我れの意識」は一切の間柄の変化、発展の要素を捨象することではじめて抽出できるものであり、その極点でようやく認められるものが個別性である。しかし本質的に共同的である個別性から、共同性を除いた様態で現れるがゆえに、個別性そのものは独立には存立しないのである。

個人主義の到達点は絶対者

では個人主義哲学者の追求はどこへ到達したのか。それは個人のみが唯一の現実であり、自己的存在のみが本来の存在である「唯一者」である。キルケゴールは唯一者は自分自身からは不可能であるが「神の前に立つこと」によってのみ個人となれるという。しかしこれでは孤立できるのはただ人に対してのみであって神に対してではない。「神は唯一者の存在のすみずみにまで参与し、神から独立なただの一点をも残さない」ので、これでは唯一者は完全に唯一者ではなくなり「個人の独立性は完全に神の中に解消してしまう」のである。

これはニーチェ個人主義も同様である。彼の言う「自己」は「宇宙の生命としての権力意志であり」、超人とは「一切の他人を征服し服属せしめようとする自己」である。それは全人類が目標とすべき「世界史的な巨大な自己」である。しかし「個人のみを唯一の実在とする立場はその個人を宇宙的な生に解消してしまう」と和辻は批判する。

とにかく個人の絶対的独立性を求めて到達するところが実は個人でなくして絶対者であるということはここに明白に示されている。個人はその固有の実在を失ってしまうのである。

もし個人の独立性を確保するなら根本的に絶対者からも分離しなければならないが、絶対者は個人と対立すればもはや絶対者ではないのだから、それは不可能である。唯一の方法があるとすれば、それは「絶対者の中にありながらしかもそれにそむく」、つまり「不従属という仕方で従属する」ほかない。従属の否定もまた一つの従属の仕方であり、結局個人はどれだけ足掻こうと絶対者の外へは出ることはできない。個人の独立性は否定でもってしか求められないのであるから、独立性は「共同性の欠如態」であることを示すのであり、それの顕著なものが「孤独」の現象である。

絶対者は根拠なき空想

人は共同性を否定し孤独に身を置くことができる。しかし「孤独の現象は、個人の本質の個別的独立性を示すのではなくして、まさにその正反対」であり「共同性の欠如態として、人が孤立的独立的な存在を欲していない」のである。なぜなら欠如したものはかえってその存在を「寂しさ」という形として強く現すからである。孤独に自身を物足りなく不満を感じることが第一の契機となり、それに対し次の契機は「我れはただ独立して有ることを棄却」し、自身を「自と他との統一、他と自との統一」を知ることによってのみ、「我れの自覚」を得る。自分を捨てることが自分を得るというこの矛盾を、ヘーゲルは「自他の統一」の意識と呼んだ。「我れは孤立的独立的でないことにおいてのみ我れたり得るのである」と和辻は説く。

こうして見れば人間は最初から孤立的独立的個人であることはできないのであるが、ホッブスはこれを事実として前提している。ルソーにしても同様である。それに対しマルクスは「人は言葉どおりに社会的動物である」ばかりでなく、「社会においてのみ孤立し得る動物」であると鋭く指摘している。和辻は「従って絶対的個人の想定は何らの根拠なき空想に過ぎぬ」と述べる。

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

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