王様の耳は驢馬の耳

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「成熟と喪失 ”母”の崩壊」を読んで その二

エリク・H・エリクソンは著書『青年ルター』においてより高次の「父」なる神に直接的に結合することで、反対するローマ教皇やルターの父親への服従を無意味化しようと試みたという。プロテスタントはより強い「父」を求めてはいるが、聖母は認めていない。ルターが女性に対して付け加えた役割は「牧師の細君」になること、そうでなければ「牧師そのものになりたいと願うような女」であり、それがルターの描く理想の女性像である。

この「牧師の細君」とは女性の中性化であり男性化を試みるものであると江藤は見ている。この女性的なるものを放逐した引き換えに得たものが、近代産業社会の労働力となる男性的女性の原型である。

プロテスタンティズムは文字通り「母」を崩壊させたのである。聖母マリアという「母」のイメイジを。さらにその背後にあるエペソスのアルテミス――おびただしい乳房からかぎりなくあたえる大地母神の像そのものを。

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近代の政治思想の理想が古来からの「被治者」を普遍的「治者」つまり主権者、あるいは統治者に引き上げ、人びとが「個人」になり互いを「他者」とすることを要求してきた。その背景には社会の産業化があり、その結果が農耕文化の崩壊であると江藤は見る。しかし「「治者」の役割に耐えつづけるためには」「自分を超えたなにものかに支えられていなければならない」。

成熟とは喪失の確認

成熟していない人格は脆弱なものだ。しかし成熟をするためにはどうすればよいのか。江藤は成熟というものの感覚、あるいはその手がかりとは、なにかを獲得することではなくて、喪失を確認することであるという。そして成熟には自信が必要で、その裏付けとなるものが絶望である。この絶望は母からの拒否によって生じるが、拒否された者は同時に見捨てた者でもある。なぜなら客観的には母が拒否する側だとしても、「かならず拒否された者の心に自分こそ相手を見棄てたのだという深い罪悪感が生じる」からである。

そして自分が母を見棄てたことを確認した者の眼は、拒否された傷口から湧き出て来る黒いうみのような罪悪感の存在を、決して否認できないからである。

「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの「悪」をひきうけることである。じつはそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。

「悪」を引き受け不自由に生きることが「自由」の回復であり、「成熟」なのである。

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)