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「日本人が知らない最先端の「世界史」」を読んで その二

大衆と知識人はどちらが危険だろうか。通説では大衆は扇情的でプロパガンダに流されやすく、逆に知識人は冷静沈着で容易には流されないという印象がある。が、著者はそれがまったくの誤解で、むしろ「学のある」エリートほど「風」に弱く、プロパガンダに流されやすいという。

日本人が知らない最先端の「世界史」

日本人が知らない最先端の「世界史」

 

エリートは伝統的に好戦的

本書で米国民のベトナム戦争に対する強行政策の支持率の推移を表で示しているが、それによると1964年には全体で五割あった支持率が四年後の1968年には四割弱まで落ち込んでいる。その内訳を見ると、非熟練労働者および失業者と中卒以下の国民の支持率はほとんど変化が見られない。それに対し上層ホワイトカラーと大卒*1以上の国民の支持率は二割程度下がっているのである。ここから見えるのは軍事介入に積極的であったのはエリートであり、大衆の大半は初めから厭戦的であったといえる。

エリートの変節の原因はマスメディアにある。戦争当初は軍事介入に積極的であったメディアが、1968年では批判的になっている。この「風」、言い換えればプロパガンダをもろに受けたのがエリートで、大衆はほとんど影響を受けなかったのだと著者は結論している。これはベトナム戦争に限った話ではなくアメリカにおいて普遍的な現象であるという。

少し逸れるが、伊藤貫氏によれば、アメリカは大きく分けて三つの派閥に別れるという。一つはグローバリズムに代表される普遍的使命に燃えるアメリカ至上主義、一つは世界の多極化を認めアメリカはその一角であろうとする派閥、もう一つはモンロー主義に現れる厭戦孤立主義である。これを社会の階層から見れば、前者二つはエリート層の派閥として、後者は大衆層として見ることもできよう。アメリカはこれら三つの緊張から成り立っているのだろう。

エリートが大衆に比べ平和的だと看做されるようになったのは第二次大戦後のことで、それ以前は好戦的だというのが社会的共通認識であった。歴史的に見ればフランス革命以前は戦争はエリート、つまり貴族の特権であった。それはのちの帝国主義時代にも引き継がれた。しかし大戦後からはその印象が逆転しているが、「実際には帝国主義時代と同じく、エリートの好戦的傾向は変わっていない」。

 エリートの弱点と大衆の無関心

ではなぜエリートはこうもプロパガンダに弱いのか。著者がジャック・エリュールの『プロパガンダ』を基に述べるに、エリートは多くの情報に接しそれを吸収するが、そのほとんどが二次情報であるためその真偽を自ら確認できない。そして社会は複雑で限られた問題以外は容易に判断できない。しかしエリートの自負から意見を持ちたがるため、プロパガンダに頼ってしまうのである。彼らは「自分にはプロパガンダなど無効だと信じ」ているためそこに付け込まれる。それが彼らの「最大の弱点」なのである。

エリートが頼りにならないのだから、やはりプロパガンダに耐性のある大衆こそ信頼すべきである。そう結論付けるのもまた問題である。なぜなら大衆は政治に無関心であるからだ。無関心であればプロパガンダも有効に働かないのは道理である。

デモクラシーのモデルとされる米国でさえ、大多数の国民は政治に無関心であり、国民が積極的に政治に参加するという「理想」は実現不可能と言わざるをえない。

2016年の大統領選挙の投票率はおよそ56%で高いとは言い難い。さらに大卒に比べ非大卒の投票率は20%弱低い。このことからも大衆の政治的無関心が窺われる。だからといって民主主義に見切りをつけるにはまだ早過ぎる。政権に対し秘密投票によって大衆の意思を示すことができることの意義はいまだ大きい。政治に関心を持とう。月並みな言い方だが、民主主義を護持するには他に道はないのである。これはまず第一に自分に向けた言葉でもある。

*1:当時の大学進学率は低く、大卒はエリートであった。