「文明と戦争」を読んで その一
戦争とは何なのかという素朴な疑問に対して、当ブログは何度も触れてきた。その疑問に正しく答えることはこの世にある難題の一つであろうが、このアザー・ガットの「文明と戦争」はその難題の助けとなるはずだ。
- 作者: アザー・ガット,石津朋之/永末聡/山本文史監訳,歴史と戦争研究会訳
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2012/08/09
- メディア: 単行本
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ガットは「戦争の謎」に迫るべく答えを探求した広範な学際的著書である。ガットの言う「戦争の謎」は簡潔まとめれば以下である。
- なぜ人類は戦闘を行うのか。
- それは先天的なものか、後天的なものか。
- 文明の出現によって戦いだしたのか。
- 文明の進展が戦争によっていかに影響され、また影響したのか。
- もし戦争勃発の条件があるなら、いかなる条件下で戦争は根絶できるか。
- 現在戦争は消滅しつつあるのか。
原始社会はルソー的平和社会ではなく、むしろホッブス的暗黒社会に近い
以前取り上げた「人体600万年史」で人類史*1のおよそ99%以上もの間は狩猟採集生活を送っていたと述べた。1960年代の主流な狩猟採集民に関する見解は主に二つあり、ルソー流の「原罪以前の無邪気な天国*2」か、ホッブス流の地獄かのどちらかであった。実際には生存困難な気象条件によって多くの狩猟採集民が滅ぼされ、資源の枯渇を予防するために多くの幼児殺し*3が広く行われた。また狩猟採集民の間では頻繁にいさかいが起こり、殺人率は近代社会の殺人率を上回るほど高く、狩猟採集民集団(氏族 clans*4)の間でも戦闘が蔓延していたということが1960年以降の研究により明らかになってきた。
オーストラリアとアメリカ北西部沿岸とから得られた発見によれば、狩猟採集民は彼らの社会が単純かより複雑かに拘わらず常に戦闘は行われていたという。そのためはっきりと引かれた境界線内の自領でいつも警戒し、防御の必要に迫られていた。そこでは主要な死因の一つは戦闘によるものであった。通例では農業を合わせた複合狩猟採集民の間で単純な狩猟採集民より多く激しい戦闘が行われたと思われがちである。なぜなら農業によって人口が高まり、資源の密集が起こり、富や名声が累積されるためそれへの競争が激化するからだ。しかし「人口当たりの暴力による死」の割合は、単純な狩猟採集民に比べ高いかというとそうとも言い切れない。現時点では判断するには資料が充分ではなく評価は不可能なのだそうだ。
単純狩猟採集民も戦争を行ったのであり、その結果、戦いがもたらす影響を全面的に受けた。得られた証拠によれば、人類の数百万年を超える進化の歴史を通じ、狩猟採集民は自然環境と生活様式が進化していくなかで、仲間内での戦争を広範囲に繰り広げていったのである。この意味において、戦争は最近になって現れた文化上の「発明」ではなく、人間にとって「自然な」ものとは断言できないまでも、「不自然」であるとは言い切ることもできないように思われる。
人間の攻撃性は先天的かつ後天的
人間の攻撃性は遺伝子に「組み込まれた」先天的なもので、抑制が困難な基本的欲求であるか、あるいは後天的に習得され、さらに選択的なものであるかのどちらかであると考えられてきた。しかし、ガットによれば、「実際には、攻撃性は、極めて危険な戦術的技能として先天的なものであり、かつ、選択的なもの」であるが、つねに「主要な選択肢」であり続けたために容易に表面に現れるものである。ただし、場合によって攻撃以外の代替手段があれば攻撃性は低い水準にまで低下し表面に現れることはほぼなくなる。
ガットはかつてのスイスやスウェーデンが西欧のなかでもっとも好戦的な国であったが、二世紀もの間にどの戦争にも加わらなかったことを挙げ、以下のように述べる。
好戦的な社会が存在し、また、歴史において一般的に戦争が好まれてきたからといって戦争が生物学上の必然であることを証明しない以上に、「平和的な社会」の存在は、戦争が発明されたものであることを証明するものではない。つまり、破滅的な攻撃行為は、正しい状況の下で、これまで容易に発動されてきた、主要かつ進化を遂げた先天的かつ潜在的なものである。しかし、その発生と普及は周囲の状況に左右され、極めて変化に富むものであった。