古事記を味読すれば ㋑
速読の効用が高調される昨今であるが、その中ですっかり等閑に付されて久しいのは味読であろう。読んで字の如く味わって読むの大切さを、古事記の一節から再確認してみたい。
古事記は大和民族の聖典である。これを読まない限りは大和民族の精神の源泉に触れることは不可能である。また、これからの日本の目指すべき姿も見えてこない。なぜなら完成されるべき日本の姿は、木に例えれば、その種の中にあるからである。
日本史は古事記に現れた「神の道」を倦まず弛まず進んで行く道筋である。これを研究し大和精神を把握し実現することが、日本人の課せられた使命であろう。
さて、下に引くのは天地開闢に関する一節である。曰く、
天地が初発の時、高天原に現れた神の御名は天之御中主神(アメノミナカヌシ)、次に高御産巣日神(タカミムスビ)、次に神産巣日神(カンムスビ)である。この三柱の神はみな独神で、御身を隠された。
次に国が幼く、水に浮いた脂のようで、海月の如く漂っていた時、葦の芽の如くに萌え騰がる物より現れた神の御名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂ)、つぎに天之常立神(アメノトコタチ)である。この二柱の神も独神で、御身を隠された。
次に現れた神の名は国之常立神(クニノトコタチ)、つぎに豊雲野神(トヨクモノ)である。この二柱の神も独神で、御身を隠された。
次に現れた神の名は宇比地邇神(ウヒヂニ)と妹須比智邇神(イモスヒヂニ)、 次に角杙神(ツノグヒ)と妹活杙神(イモイクグヒ)。次に意富斗能地神(オオトノヂ)と妹意富斗能辯神(オオトノベ)、次に淤母陀流神(オモダル)、次に妹阿夜訶志古泥神(イモアヤカシコネ)、次に伊弉諾神(イザナギ)と妹伊弉冊神(イモイザナミ)。
高天原に次々と神が成ったと解して足れりとする所だが、味わえば意味が多い。つまり無の宇宙に混沌が生成される過程を述べたものである。大川周明はこれの世界観に就いて注意すべき一事があるとする。曰く、
そが天地の創造を説かずして、天地の啓発、天地の開展を説く事である。天之御中主神は宇宙の根本生命、高御産巣日神・神産巣日神は宇宙の生成力の神格化である。そは決して宇宙に超在する神にあらで、内在せる生命と力とが、神として顕現したのである。
生命と力とが動き始め、海月の如き混沌の中に、次第に秩序が展開される。順を追って述べれば、
- 宇摩志阿斯訶備比古遅神は葦の芽は春が来て萌え出る盛んな葦の若芽
- 天之常立・国常立の両神は展開されたる天地の神格化
- 豊雲野神は国土の生成力の神格化
- 宇比地邇(泥土根)・須比智邇神(沙土根)は大地未だ定まらぬ砂泥の混ざった国土成形の第一段階
- 角杙・活杙はまさに大地が固定し始め、角のように芽が出始め、活き出したとする第二段階
- 意富斗能地(大殿地)・意富斗能辯(大殿邊)は大地がまさに凝固した第三段階
- 淤母陀流(面足)・阿夜訶志古泥(綾惶根)は、不足なく成就さる国土の神格化
- 伊弉諾・伊弉冊は人格的意志の神格化
男女両神に分かれて居るのは一つの神格を男女の両名より命名せるもの、つまり一つの生成の力を能動と受動の両面から神格化したものである。7の淤母陀流神が不足ない完成されたる国土を表し、それを「あやにかしこし」と嘆美する事を表現したものである。
次回に続く。