読書と学問 その壱
筆者は毎年50冊程度本を読む。読書家を自認する諸氏からすれば、嗤われる冊数だろう。遊興に耽りたい気持ちに鞭し、寸暇を惜しんで読書に努めては居るつもりであるが、果たしてこれで道を得られるのかどうか、甚だ心許ない。
周囲からの視線も、必ずしも温かいとは言い難い。金にも為らぬ事と蔑まれもする。不惑の年に迫るにも拘わらず、今日も心を揺らされる。それは横井小楠の「学校問答」である。
一般に学問とは知性を磨くことであることは、同意を得られる所だろう。学者とは取りも直さず、豊富な知識体系の所有者であると考えるのが普通である。江戸時代の儒学はそれだけに留まらず、徳の育成も兼ねている。小楠曰く、
としているが、読書思索による博覧強記は、学問の全体でも深遠な学問でもないと言う。読書が学問の必要条件であるとするのは、誤りですらあると述べる。
堯舜以来孔夫子の時にも、何ぞ嘗て当節の如き許多の書あらんや。且つ又古来の聖賢、読書にのみ精を励み給うことも嘗て聞かず。
読書は必ずしも学問でないのみならず、書籍に依ってのみ学問しようとすれば、却って遠ざかる恐れがある。更に曰く、
ただ書に就いて理解す、これ古人の学ぶ所を学ぶに非ずして、所謂古人の奴隷と云うものなり。今朱子を学ばんと思いなば、朱子の学ぶ所如何と思うべし。左はなくして朱子の書に就くときは全く朱子の奴隷なり。
実に耳が痛い指摘である。読書を最大の喜びとしたラルフ・ワルド・エマーソンも言う、
温順なる青年は、図書館裡に育ちて、キケロ、ロック、ベーコンの意見を信奉することが、自分の義務であると信じ、キケロ、ロック、ベーコンが、その書籍を草せる時は、同じく図書館裡の青年に過ぎざりしことを忘却し去って居る。かくて吾等は、思索する人間を得ずして、紙魚を得るのである。
更に言う、
書籍は、魂を吹き込む以外には無用のものである。予は書籍の引力に牽かれて自己本来の軌道を外れ、自ら一星系とならず他の衛星となるが如くんば、寧ろ一巻の書をも読まざるに若かない。
言うまでもないが、書に親しむなという話ではない。書籍の真なる価値はこれを生み出した精神に在り、書籍そのものではない。著者自身、知は人に優れて高徳であるが、そのために完全無謬であるとされてしまう。そうなると書籍は害多く益少なくなってしまうのである。
ではどうすれば可いのか。次回に続く。
*1:トクジツゴンギョウ:情が篤く誠実に努め励むこと。