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王様の耳は驢馬の耳

受け売りを書いているだけです。気になさらないで下さい。

古事記を味読すれば ㋺

宗教

 さて、早速話を続けたい。

 

bambawest.hatenablog.com

 伊弉諾・伊弉冊の両神は宇宙の生命と力を現した。しかし、この両神が交わるが、なぜか上手く行かない。理由が分からない両神は天津神*1の所へ尋ねに行くが、天津神は意外にも布斗麻邇(フトマニ)で占うのである。

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 最高神であるはずの天津神は、自らを越えたなにものかに神意を乞うのである。和辻哲郎はここに注目し、

神々の根原でありながら、限定されることのない不定の神の意志

 とし、更にまた、

最後の天つ神たちさえも不定者の現われる通路であって究極者ではない。究極者を神として把捉しようとする意図はここにはないのである。

 彼はこれは実に正しい態度であるとする。またこれが「神聖なる無」であると主張したのは重要である。

原始人の素直な、私のない、天真の大きさがある。それはやがて、より進んだ宗教的段階に到達するとともに、あらゆる世界宗教に対する自由寛容な受容性として、われわれの宗教史の特殊な性格を形成するに至るのである 。

 つまり、上代大和民族一神教の如く絶対性を認めなかったのである。それが後に儒教仏教、時に耶蘇教を受け入れていくその素地になるのだ。それがために大きな混乱も齎されることになるわけだが、我等の祖先はそれを乗り越え儒教及び仏教は日本において一つの完成を見るのである。

 さて、最後に天照大神に就いてであるが、伊弉諾が黄泉の国から戻り穢れを祓う際の禊の中で最後に産まれることは重要である。筑紫の日向の橘の小門(オド)の阿波岐原(アワキハラ)の中流で身を清めた際に八十禍津日神(ヤソマガツヒ)と大禍津日神(オオマガツヒ)が産まれる。

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 本居宣長はこの二柱を穢れから産まれた悪神であり、この世の災厄の元凶はこの二柱の所為であるとしたが、平田篤胤はそれは誤りであると主張する。なぜと言えば、神々は産まれる際にはなんらかの行為や望みを助ける為に産まれる救いの神々であるからであると言う。

 つまり八十禍津日・大禍津日は悪を憎み悪に怒る荒ぶる神であって、つまり善神であると主張する。この主張は筆者の腑に落ちる。

 ともあれ、伊弉諾は穢れを祓い祓いきった最後に左目から天照大神が産まれる事は意味深長であろう。曇りなく清らかなる状態が、即ち天照を表現するのである。

 言葉のない時代に形としてその清浄を現したのが八咫の鏡である。鏡は曇っていては映らず、暗くては見ることが出来ない。これを私と思えと瓊瓊杵尊に託したその意味は、清く明るい心を子々孫々に伝えよという事であろうと考える。

 古事記の一節だけでも、これをよく味わえば様々見えてくるものがある。古事記に限らず著者の辿ってきた道を駆け足で、速読で通り抜けるだけでは、決して見えないものがあるのである。

*1:どの神であると特定されていない。