王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「私の国語教室」を読んで その弐

前回、国語の乱れは筆記の乱れであり、知識層の無関心の結果が国語に対する無知を招き、それが国語の乱れに帰着したとまで書いた。今回も引き続き福田恆存著『私の国語教室』を見ていきたい。

f:id:bambaWEST:20170308114421p:plain

日本語は習得するのに、世界で最も難しい言語であるという人が少なくない。それは「外国人から見て」という但し書きが必要であろう。母国語としてであれば、まったく別の話である。福田は次のように述べる。

第一、外國語としてなら別の話、母國語としてどの國語が一番むずづかしいかなどといふ議論は愚かな話で、それはあたかも男に生まれたはうが得か、女に生まれたはうが得かという議論と同じで、両方を經驗できぬかぎり、その比較は不可能なはずです。

しかしこの主張はまことしやかに通用している。先日も友人との会話でこの話題が出たが、彼は最後まで日本語の難解なることを譲らなかった。日本語が難解であることを根拠に、日本人が外国人より優れた言語能力を備えているとでも言いたかったのかどうか。

ともあれ表音主義者はこの習得に困難なる日本語を、もっと簡易なものにして国語習得に割く時間を減らして、それによって生じた余力を他の科目に回せばよいと考えているようである。余談だが、中学の現行学習指導要領では国語には385時間充てているが、英語には420時間と国語に比べて授業を35時間多く割いている。誰でも喋れる国語に割く時間はないとでも言うのか。

他には外国人にも習得が容易にするべきであるという議論もあるが、移民のために国語を変えようという議論などためにする議論であり、そもそも外国人のために国語を改変した国など聞いた試しがない。

さて、表音文字である英語は米国哲学者ルドルフ・フレッシュの調査によれば、発音と表記との関係がだいたい規則的と認められるものは、全体の87%で残り13%が不規則であるという。英語にしてこうであるが、表音主義者は英語の不規則性には不問に付しているのは不思議である。

要するに、文字言語は音声言語とは役割が違うと福田は言いたいのだ。前者の方が語彙が豊富で、同音異義語でも文字言語にしか用いられないものが多くある。それを表音式にしては読み難くなり、いずれ語源的連関を失い、語意識を喪失するということである。

さらに、文字言語には規範性があることを指摘する。流動的で変化し易い音声言語に対して規範の作用を持っている。音声以外の規範を文字に認めないことは、現代以外の規範を歴史に認めないということになる。試みに若者言葉を見れば一目瞭然であろう。歴史的規範性から最も縁遠い若い世代の言葉がいかに崩れているかは、わざわざ論ずるまでもない。

漢語漢字と同様、歴史的にも同時代的にも、文語は標準語としての役割を果たしてゐはしなかったでせうか。……いづれの國語においても文語のはうであへて口語から離れて頑固に形式を守らうとする傾向があり、……日本の口語は各時代を通じて、自分のはうから文語を離れて身を持ち崩していく傾向がありはしなかったでせうか。

しかし表音主義者は文字は音声の模写だと考え、その根拠は音声言語が先にあって、それを表記するために文字が生じたからだという。なるほどそうかもしれない。が、それは表音文字の話で、表意文字たる漢字の発生は絵文字である。

福田によれば、この考えは十九世紀末、ドイツで起こった言語学が文献主義的だった時代の反動であり、前提である過去の研究の方法と業績を受け継ぎながら出したアンチテーゼだからこそ意味があったもので、日本ではその前提がないためにアンチテーゼに没入してしまうのだという。

これは言語学国語学に留まらず、今でも全ての社会科学が同様である。観念論の歴史を持たない日本に、反動的思想である唯物論だけを持ち込み、ないはずの観念論をわざわざ拵えて攻撃する。

ですから、その唯物論はただ攻撃的、破壊的であり、観念論よりも観念的、非生産的になものになってしまふのです。……やはり十九世紀末の自然主義的思想を背景にして出てきたものであり、したがって、どうしてもその限界から脫け出られぬ歴史的存在であることを強調したいのです。

ルドルフ・フレッシュ曰く、完全に表音的な表記法などというユートピアを夢見てはいけない。

 

福田恆存評論集〈第6巻〉私の國語教室

福田恆存評論集〈第6巻〉私の國語教室

 

 

 

bambawest.hatenablog.com