王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「大衆の反逆」を読んで その弐

今回も「大衆の反逆」を取り挙げたい。前回は現代の各所に見られる「野蛮」に言及して終わった。大衆の野蛮はとどまるところを知らず、飽くことを知らない。今回は多少重複するがもう少し詳しく、そして、その他にも触れてみたい。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

 

オルテガは大衆を「平均人」だと述べている。平均人とは他の皆と同じだと感じることに苦痛を覚えない、同一であることに安住するような人びとであり、彼等は平均的でない者との共存を望まず「圧殺」するのである。

従って大衆は「選ばれた少数者」とは共存を認めず、彼等の支配に服することを良しとしないことは当然である。

相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えている人間のタイプがあらわれたのだ。

それは「道理を持たない権利」また「無法の道理」であり、自分たちの統治能力の欠如を顧みず「社会を指導しようと決心」した大衆の表明である。平均人の「思想」は持ってはいても形成する力には欠けており、意見は述べたがるが実際には思想ではなく、「言葉をまとった欲望にほかならない」のだという。

思想を形成すること、意見を述べるということは、そうした審判に訴え出てそれにひざまずき*1、その法典と判決を受け入れることとまったく同じことであり、したがって、われわれの思想の正当性を論じ合う対話が最良の共存形式であると信じることである。

しかし大衆は討論すれば敗北を予感しているため「本能的に自分の外にある再興審判を敬う義務を放棄している」のである。 これによって惹起される事態は、

「討論を絶滅する」ことであり、……客観的規範に対する敬意を前提としているいっさいの共存形式が嫌悪されている。

そのため大衆はあらゆる正当な手続きの省略し、社会生活全般に「直接行動」、つまり暴力によって介入を望むようになる。「直接行動」は力を最終手段とする従来の慣例を逆にし、暴力を最初で唯一の手段とする。

暴力とは、あらゆる規範の廃棄を提案する規範であり、われわれの意図とその実施の間に介在するいっさいの中間段階を廃止する規範である。暴力は野蛮の大憲章Charta Magnaである。

煩雑な手続きや煩瑣な規範は、社会共同体の共存を可能ならしめる。

文明とは、何よりもまず共存への意志である。人は他人を考慮しない度合いに応じて未開であり、野蛮である。野蛮とは解体への傾向である。

政治においては自由主義的デモクラシーが「間接行動」の典型であり、多数者と意見や思想を同じくしない少数者と共存する場所を残そうと努める寛容なる形態であると述べる。しかし大衆は、大衆でない者との共存を望まない。なぜなら「大衆でない者を徹底的に憎んでいる」からだ。

さて、オルテガは大衆人の典型として「科学者」を挙げている。科学者は知的専門家のなかの代表者であり、社会的影響力を行使する、今日における貴族である述べる。現在の科学者は特定科学の知識は豊富に持つが、その限られた範囲の外を知らないことを美徳だと感じ、全体的知識に関しては道楽だと考えているのが彼等の態度であるという。

文明が彼を専門家に仕立てたとき、彼を自分の限界内に閉じこもり、そこで満足しきる人間にしてしまったのだ。しかし彼の心のうちにあるこの自己満足と、自分は有能だという感情は、彼をして専門外の分野をも支配したいという気持ちに導くだろう。

その結果として優れた資質を備えながら、大衆人とは対極にいるはずの者でも、「特別な資格を持たずに大衆人のように振る舞う」閉鎖的人間になってしまう。彼等も大衆人と同じく、先代からの文明を「当たりまえ」の既存物であると考えており、それに対して何らの感謝も感じない「慢心しきった坊っちゃん」なのだ。

 

bambawest.hatenablog.com 

*1:ひざまずくは膝を付くことであり、ひざまづくと書くのが正しいが……。