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「大衆の反逆」を読んで その壱

言わずと知れたホセ・オルテガ・イ・ガセット著、「大衆の反逆(桑名一博[訳])」。

以前から読もうと考えて、長い間後回しにしていたがようやく読み終えた。何回かに分けてこれを取り挙げたい。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

 

 

最初に知らねばならないこととして、オルテガは汎ヨーロッパ主義者であることである。彼はモンテスキューが「ヨーロッパは複数から成る一国家にすぎない」、あるいはバルザックが「大いなる大陸家族」と言った統一ヨーロッパの信奉者なのだ。ヨーロッパはドイツ、フランス、スペイン、イタリアなどの多様性を保持しつつ統一へと向かうはずが、ナショナリズムがその障害となり統合を妨げていると考えていることは留意せねばならない。

統一を可能にするには頭を絶えず働かさねばならないが、「鈍重な頭の持ち主」ではこれは不可能だ。彼等は東洋の「専制政治の下で生きるために生まれた者」であるが、ヨーロッパ全域において勝利を収めたのはこの「鈍重な頭の持ち主」だった。これがすなわち大衆である。

大衆人はただ欲求のみを持っており 、自分には権利だけがあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない。つまり、彼等は自らに義務を果たす高貴さを欠いた人間であり、俗物なのである。

その対極に「選ばれた少数者」つまり、エリートについては、

……他人よりも自分はすぐれていると考える厚顔な人間ではなく、自分では達成できなくとも、他人よりも多くの、しかも高度の要求を自分に課す人間であるということを、知っていながら知らないふりをしている

者がそうであると述べる。しかし現代においても大多数が「政治的にその日暮らし」をしており、しかも彼等が最強者であるため少数の反対者を許さない。その日暮らしであるために「社会的権力の活動はそのときどきの葛藤をかわすことだけに限られ」、それを正当化しようと現在という殻の中に閉じこもってしまう「慢心しきった坊っちゃん」の時代だという。

現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。

「慢心しきった坊っちゃん」は反省などするはずもなく、歴史という過去から来る連続性を絶っているゆえに、危険を顧みずなにか革新的なことを始めようと試みる。彼等は自分より優れた存在を、一切認めない閉鎖的な人間であるため、歴史から先代の失敗を学ぼうという謙虚さは持ち合わせていない。それに対しオルテガは痛罵する。

人間の真の宝とは、その失敗の蓄積、すなわち、何千年にもわたって一滴一滴とたまってきた生にかかわる長い経験である。……過去との連続を絶つこと、つまり新たにことを始めようと願うことは、人間がオランウータンにまでおちぶれ、それを真似しようとすることだ。 

ここまで言い切っておいてオルテガは大衆人は馬鹿ではないと言う。今日の大衆は以前の、どの時代の大衆より利口で知的であるが、偶然見聞きした知識を神聖化し、あちこちで強引に他人に押し付けている単純なだけの人びとなのだ。

つまり凡庸な人間が、自分はすぐれていて凡庸ではないと信じているのではなく、凡庸な人間が凡庸さの権利、もしくは権利としての凡庸さを宣言し、それを強引に押しつけているのである。

とはいえ、上でオルテガが認めたように、大衆が偏った限定的な意見なり思想を持つこと自体は利点ではないか。どの時代よりも進歩したという証拠ではないか。

いやけっしてそうではないのだ。この平均人の「思想」は真の思想ではなく、またそれをそなえていることが教養でもない。……思想を持ちたいと望む者は、それよりも前に真理を愛し、真理が課すゲームのルールを受けれる用意をする必要がある。

議論をする際に一連の規則や調整する審判がなければ議論にはならず、ただの意見なり思想なりの言い合いに終止するだろう。こうした規則が「文化のもろもろの原理」であり、原理が欠けていれば文化は存在しない。文化がなければ「言葉の最も厳密な意味における野蛮」であるという。

現代においてもこの「野蛮」は随所に見られる。いや、それを見ない日はまずない。これが改まる日は来るのだろうか。オルテガいわく、

むなしい期待は捨てよう。