「倫理学」を読んで その四
引き続き和辻哲郎の「倫理学」を取り上げていきたい。この本は岩波文庫が出版しているものだが、全四巻にも及ぶ大著であり、和辻の代表作でもあるためしばらくこの本と付き合うことになる。
ちなみにここからは「倫理学」の第二巻になる。哲学書であるため筆者の乏しい理解では、読み解くのに手間取って前に進まないからずいぶん時間がかかっている。
信頼の根拠は個人の人格の同一性
人は危急の際には必ずだれかに救いを求めて声をあげるが、これは一般の人々を初めから信頼しているから呼ぶのである。ひょっとすれば救いを求めた相手が自分をさらなる危機に陥れることもあり得るが、それでも救いを求めるということは一般の人々は救い手として信頼されている証拠であろう。この信頼は上のような特殊な場合に限らず、日常を見回してみれば普通に行われていることである。たとえば道を尋ねる、無警戒で街中を歩くなどである。
この信頼の根拠は何だろうか。ニコライ・ハルトマンは信頼を二つに分けて考察した。一つは「信頼に値する能力」、または「約束する能力」と呼び、「信頼するに足る者」は自己を約束によって自ら拘束し、それが実現されるまで意思を変えない道徳的な力を持つ個人である。その人格は現在だけでなく「未来の態度をあらかじめ規定し得る人格」の同一が信頼の根拠であるとした。二つ目は一つ目を前提にいきなり他を信じる「他に対する信頼」を説く。他人が信頼に値するかどうかを検討した後に信じるのではないため「冒険であり賭けである」が、人間関係はすべてこの信頼の上に立っているとする。
信頼の根拠は人間存在の理法
ハルトマンは「信は共同社会への能力である」というように、信頼の根拠を「個人の人格の同一性」に帰着させた。しかし、約束を破る者は予め約束を破る自己を規定しているため自己同一性を保持している。従ってハルトマンの考えは不十分であると和辻はいう。
信頼の根拠は人間存在の理法、つまり間柄であり、それが信頼を存在させている。信頼という現象は、ただ他を信じるだけでなく「自他の関係における不定の未来に対してあらかじめ決定的態度」を取ることであり、現前の行為をあらかじめ決定するものは「人間存在において我々の背負っている過去」である。間柄によって規定されてきた過去は同時に「我々の目指していく未来」となる。「現前の行為はこの過去と未来との同一において行なわれる」もので、現前の行為は過去から未来へ「帰来する」無限に続く「否定による本来性への還帰」の運動なのである。未来も過去も究極的には同じであるから、ここに「未来に対してあらかじめ決定的態度を取る」ことの最も深い根拠があると和辻は書く。
信頼の根拠は過去から未来へ間柄的に展開する人間存在の理法が信頼を存在させるのであれば、「人間関係は信頼の上に立つ」という命題はことの成り行きを逆転させたものといえる。
人間関係が立っている地盤は空間的*1時間的*2なる人間存在の理法であり、従って信頼の根拠である。この根拠の上に人間関係が立つとともに、また信頼も立つのである。
人間関係と信頼の関係とは同時に成立するものであると和辻は説く。だからといって不信や裏切りがないわけではない。それは「信頼の欠如態」であり、人間存在の理法に対する造反であるため、「人間存在の最も深い奥底から否定」される。裏切り行為が憎むべき罪悪とされるのはそのためである。
人間の真実とは信頼に応えようとする心構え
人間の真実とは、他の語で言えば人間の真理であり、あるいは人間存在の真相である。
これまで人間存在の真相とは個人的・社会的な二重性における否定的構造において見出されるもので、個人的側面のみからではそれはできないことを見てきた。人は全体性を否定し個別性を否定することで、全体性を自覚する帰来の運動によって人倫的合一を果たす。そのときに人間の真理が生起するのである。その否定の運動が停滞し帰来の運動が阻まれると真理は起こらず、それに反するところの虚偽が生じるのだ。
この真理は実践的行為的には「真実」または「まこと」と呼ばれるものであって、日本語では「誠」の字が当てられている。中庸の「誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり」というのは古来日本でも行われ、現在でもその意義を失わない。
具体的には、日常においては第一に、「与えられた事実に言葉を合致」させ、「うそ」「いつわり」を言わないことである。しかし、必要に迫られたり勘違いで嘘を語る場合もあり得え、また嘘を語ったはずがかえって事実に則することもあり得る。和辻はここで真偽を定めるのは「当人の心構え」であるという。真偽の問題は結局のところ対人関係において定まるのであり、事実と言葉との一致不一致によっては定まらないのである。
第二に、言と行の一致不一致である。与えられた言葉あるいは約束に対し、行動を合致させるのが真実であり忠実である。約束は人間関係の表現であるから、「約束を結んだ人と人とは未来的関係によってすでにあらかじめ現在の存在を規定する」のであり、「約束そのものがすでに信頼の行為」なのだ。約束を果たすことは信頼の実現であり、人間存在の真相を生起させることである。結局ここでも真実は人間関係に帰着する。
かく見れば、信頼関係においてその信頼に応え、その信頼に価するように行為することは、ちょうど人間存在の真相を起こらしめることとして、まさに「まこと」なのである。
信頼関係がなくては「まこと」は起こらない。一貫して変わらない心構えがことを「まごころ」と呼ぶ。