王様の耳は驢馬の耳

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「ホモ・ルーデンス」を読んで その一

とりあげる順番で言えば、ロジェ・カイヨワの前にこちらを先にすべきなのだが、諸事情あって後になった。以前の記事でホイジンガに触れたが、今回はもう少し深く関わってみたい。

表題である「ホモ・ルーデンス」とは「ホモ」は人を意味し、「ルーデンス」とは遊戯を意味するホイジンガの造語である。つまり遊ぶ人という意味だ。彼によれば遊びは文化より古いとしているが、文化は遊びから発するのではなく、遊びのなかに、遊びとして発達するものであるとしている。

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遊びは超論理的なもの

「遊び」といっても「真面目」や「真剣」に対置される意味の「娯楽」や「ふざけ」などの意味ではなく、人間に備わる特性としての遊びとしての意味で使われている。そしてその要因を文化そのもののがどこまで持っているのか、が問題とされている。なので、遊びが文化現象の間でどういう位置を占めるのか、ということは問題としていない。

これまでの遊びの定義はどれも遊び以外のもののためにされ、何かの役に立っているという前提からなされ、何のために遊ぶのかという原因と目的を問題としたものであった。そのどれもがもっともなものだが、遊びの「面白さ」については答えていない。この遊びの迫力、人を夢中にさせる力のなかに遊びの本質があり、どんな論理的解釈も受け付けないものである。

さらに、遊びは人間と動物との共通した性質であり、これを理性に基礎付けることはできない。遊びとは単にある本質を成り立たせている素材というだけでなく、宇宙のなかで人間が占めている位置の超論理的な性格の最高の証明でさえある。なぜなら動物は遊ぶことでメカニズム以上の存在であることを証明しているが、人間は遊ぶと同時に遊んでいることを知っている。したがって遊びが非論理的なものであるがゆえに、それをする人間は単なる理性的存在以上のものなのだとホイジンガは主張する。

文化構成の作用素は想像

遊びの基礎とは、詰まるところ想像である。諸々の現実の心象を形象化し、別の現実を生み出すことが遊びの基礎となるのである。たとえば言語は物に名を付け、その名で物を呼ぶ行為は、物を形而下から形而上へ引き上げるもので、この行為は常に遊びながら、つまり想像によって行われている。人間は存在するものの他に第二の世界を創造するのである。神話も現実世界を想像で形象化したものという点で同様である。祭祀はといえば、現世の幸福の保証のために行われるものだが、これも純粋な遊びとして行われている。原始社会の原型的行動には遊びがすでに織り込まれており、文化を構成する諸々の要因の因子として遊びが存在したのである。

遊びの三つの形式的特徴

遊びは絶対的自立性を保持し、賢愚、真偽、善悪などの対比の外にあるものであるが、美の要素とは堅い紐帯で結ばれている。たとえば、躍動する肢体の美しさや、リズムとハーモニーがそれである。遊びは論理的に完全な定義をすることができない、生命体の一つの機能であり、遊びという概念は、それ以外のあらゆる思考形式とは、常に無関係であるという特徴を持つ。さらに遊びの主要な特徴として以下の三つが挙げられる。

第一に自由な行動であること。命令されては遊びではなくなるのは当然で、いつでも延期できるものであり、または中止しても構わないのである。肉体的な必要からでも、道徳的義務によっても行われるものではなく、仕事ではない自由時間にする、いわば余計なものである。ただし遊びが文化として機能するようになれば、必然、課題、義務などが副次的関係を遊びとの間に持つようになる。

第二の特徴として遊びとは、日常生活から独立した、直接的利害、つまり必要や欲望の直接的満足の外に置かれているものだということである。遊びは欲望や必要の過程、つまり日常生活を一時的に停止させ、その合間に割って入った一時的行為であり、そこで満足を得て、そこだけで完結する行為である。しかしそれを規則的に繰り返すうちに、個人としては生活の一部分となり、社会的には文化として作用する不可欠のものとなる。

最後に、遊びは日常生活から区別された、定められた時間と空間のなかで行われて、終わるという積極的な特徴がある。遊びは時間的制限によって繰り返し遊ばれることで、文化形式として定まった形態をとるようになる。ある遊びの形態が一度でも行われれば、伝えられ伝統になる。この反復の可能性が遊びの最も本質的な特徴の一つである。

遊びの時間的制限以上に空間的制限はより印象的である。あらゆる遊びはあらかじめ区画された空間の内部で行われる。場所の区画は意識的、無意識、または、現実的、観念的に行われる場合とがあり、遊びと神聖な行事とは形式、機能上は同じであるため、遊びの場と奉献の場との区別はつかない。たとえば闘技場、舞台、神殿、法定などは現実から隔離され、ある行為のための特殊な世界である。

遊びの他の諸要素

遊びが美しくあろうとする傾向は、整然としたルール形式を創造しようとする精神と同じものであり、それが諸々の遊びを活気づけている。遊びは最も高貴なリズム(強弱の周期的秩序、律動、調子)とハーモニー(調和)の二つの性質を持っている。

遊びのなかで特に重要な要素は緊張である。つまりそれはやってみなければわからないという不確実性であり、遊びは勝敗などに関する不確実を確定するために払われる努力である。

遊びのルールは脆い幻想

遊びの場のなかのさらなる積極的な特徴は、絶対的ルール(秩序)が支配しているということである。遊びがルールを創るというよりルールそのものであり、ルールを破れば遊びが無価値になってしまう。それをする者を「遊び破り(スポイル・スポート)」とよぶ。遊びの幻想、つまりルールはフィクションであり、ゆえに破るに易い非常に脆いものであり、遊び破りは遊びの世界そのものを破壊してしまう。真面目な世界においては、遊び破りはつまり、背教者、異端者、革新者、良心的参戦拒否者として現れる。

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

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