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「倫理学」を読んで その一

和辻哲郎の主著と言えるこの『倫理学』は哲学書であり、前著である『人間の学としての倫理学』を体系的に叙述しようと試みた大著である。和辻自身が認めるように、本著は一見異様に見える。というのも、ありきたりな倫理学書といえば「既成の倫理学の定義や概念を並べ立ててその整理をもって能事おわれりとする」ものだが、倫理学の任務は「倫理そのものの把捉」であるとしているためだ。

倫理は「我々の日常の存在を貫いている理法」であるから、誰でもその足元から発見することができるものである。倫理そのものは倫理学書の中にあるのではなく「人間の存在自身の内にある」ということである。

倫理学から個人主義を洗い去る

倫理学を始めるにあたって、最初に求められるのは「倫理を単に個人意識の問題とする近世の誤謬から脱却する」ことである。この誤謬は近世の個人主義的人間感に基づいたもので、人間存在の問題である「実践的行為的連関」の問題には関わりがないからである。なぜなら個人主義は、人間存在の一つの契機に過ぎない個人を人間全体に置き換えようとするもので、これがあらゆる誤謬のもとになるというわけである。

たとえば孤立的個人がまさにそれで、自然に対する自己の独立、自身に対する支配、自己の欲望の充足などが倫理問題の中心に据えられる。この立場でのみ倫理問題を語るには、最後には超個人的自己、社会の幸福、人類の福祉などを引っ張って来なければ原理が立てられないのである。これが倫理問題が個人意識のみの問題ではなく、人と人との間柄にあることを示す。ゆえに倫理学は人間の学だということである。

「倫理」と「存在」の本来の意義

「倫理という概念は倫理という言葉によって言い現されて」おり、倫は「なかま」を意味し、さらに一定の「行為的連関の仕方」をも意味する。つまり、ある決められた型、一定の関係(父は父、子は子として)に沿って振る舞うことによって結合し、一つの全体を構成するという意味を持つということだろう。したがって「倫は人間存在における「きまり」「かた」すなわち「秩序」を意味することになる」。

理は「ことわり」「すじ道」を意味する。倫を強調するために付け加えたものであるとする。であるから倫理は「人間の共同的存在をそれとしてあらしめるところの秩序、道」以外のなにものでもないと説く。換言すれば倫理とは「社会存在の理法」なのである。

倫が「なかま」であるとして、では「なかま」とは、人間とは何なのか。西洋においては人の本質を「個人においてのみ見ようとする根本の態度」があるが、これは西洋の傾向として人という言葉が個体的な意味しか持たないためであると和辻は分析する。しかし人は個体的であるとともに社会的でもあるから、ホッブスやルソーの言うような孤立した個人ではない。人間という言葉はその字面が示すように、「人の間」「よのなか」「世間」を意味する。人間は個別人であり社会ではなく、しかし共同態であり社会でもあるので孤立的ではないからこそ人間なのである。

従って相互に絶対に他者であるところの自他がそれにもかかわらず共同的存在において一つになる。社会と根本的に異なる個別人が、しかも社会の中に消える。人間はかくのごとき対立的なるものの統一である。

この弁証法的な構造を見なければ、人間の本質は理解できないと和辻は述べる。「世間」「世の中」も同じ文脈から捉えなければならない。「世」は「世代」「社会」を意味し、世は時間的に推移しその中を渉るというような場所的な意味を持つ。この世の「中」「間」は人間関係を現し、人は主体的に行為し相互に交わるほかはどんな間、仲にも存在できないとともに、何らかの間、仲でなければ行為することもできない。世間、世の中とは「生きた動的な間」であり、時間的場所的な世という言葉の結合から成るのである。

和辻は人間とは「行為的連関として主体的な共同存在でありつつ、しかもその連関において行為するところの個人」であると規定した。それは人間を一つの「もの」「実体」として理解するのではなく、絶えず個人を生産しつつ個人を全体へ没させる、そのような人間の有り方、成り方を「存在」という概念によって現そうとする。

和辻によれば「存」は本来「主体的な自己保持」を意味し、亡失に対する把持または生存である。つまり時間的に亡くなってしまう性格を持つものを規定するところの、「存亡の存」であるとする。「在」は「主体がある場所にいる」ことで、これは「去」に対するものである。つまり自ら去り得るものがある場所から他へ移り行くことを示す。主体のいる場所は世を捨てない限りは社会的な場所であり、人間関係のあるところでもある。したがって「在」は主体的個人が人間関係のなかを去来しつつ、そのなかにあることにほかならない。以上を踏まえて「存在」とは「間柄としての主体の自己把持、すなわち「人間」が己れ自身を有つこと」である。これを簡単にいえば「人間の行為的連関」と言い得る。

人間存在の二重構造

この二重構造は否定の運動であると和辻は説く。行為する「個人」は人間の全体性の否定としてのみ成立し、人間の全体性は個別性の否定によって成立する。否定を含まない独立自存の個人、全体性はいずれも虚構に過ぎず、「この二つの否定が人間の二重性を構成する」のである。

個人は全体性の否定であるというまさにその理由によって、本質的には全体性にほかならぬ。そうすればこの否定はまた全体性の自覚である。従って否定において個人になるとき、そこにその個人を否定して全体性を実現する道が開かれる。個人の行為とは全体性の回復の運動である。否定は否定の否定に発展する。それが否定の運動なのである。

人間存在の根源が否定そのものであり、これがまさに人倫であるということである。それが結局本来的な「絶対的全体性の自己実現の運動」でもある。二重構造とはつまり一に全体に対する他者としての個人の確立と自覚、二に全体の中への個人の棄却となる。

倫理学〈1〉 (岩波文庫)

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