王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「倫理学」を読んで その五

引き続き和辻哲郎の「倫理学」を取りあげる。

前回は信頼の根拠は人間存在の理法であり、信頼も人間関係も同時にこの理法の上に立つこと。そして人間存在の真相は二重の否定的構造においてのみ現されるもので、それが停滞すれば真実は起こらず虚偽が生じることを見てきた。この真理の実践的行為的を「真実」あるいは「まこと」と呼ぶが、では虚偽とはいかにして生じてくるのか。和辻の考察を見ていこう。

虚偽は真実が起こりつつ起こらないこと

「誠」とは「偽りでないこと」というように、すでに誠を規定する際に「うそ」「いつわり」を用いられ、「いつわり」を規定する際には「事実でないこと」として事実、または真実が用いられており、どちらも反対の場合を予想するものとして扱われている。これまでの考察では虚偽と相対することなく進めてきたわけだが、では人間の虚偽とは何であろうか。

人間の真実は人と人との「間において起こる」もので、静的に有るのでなく常に動的に新しく起こり、カントが当為と呼ぶところの「当(まさ)に起こるべき」ものなのである。従ってそれは「起こらないこともあり得る」ものである。ここに当為の意義を見いだせると和辻はいう。

人間の真実は常にすでに起こりつつしかも起こらないことがあり得るゆえに、当に起こるべきものとなる。それが人間の真実の当為的性格である。

 真実の規定に虚偽が用いられるように、虚偽も真実に依存せずに存立することはできない。事実ではない嘘であるのに真実と装うことで虚言は成立するのであるから、虚偽とは「真実ならざる真実」である。すでに説いたように真実とは常に新しく起こるものであるから、「真実ならざる真実」という状態は人と人との間において「起こらない」ものにほかならない。

平たくいえば虚偽が起こるには他人との間において他の部分では誠実でありながら、ある局面において不誠実であるということである。これが「真実の起こらない仕方」である。逆にまったく不誠実な人間が誠実を装ったところで、虚偽は起こりえない。真実の起こらないということは局所的局時的なもので、真実が起こりつつある場面においてのみである。

還帰運動の停滞・固定化は根本悪

人間存在は全体性を否定し自他に分裂し、個別性の否定によりまた全体性へ帰るという帰来の運動であることはすでに説いた。この運動において真実が常に生起され続け止むことがないゆえに、ある所ある時に帰来の運動が止まり真実が起こらなくなる。否定の運動の停滞は非本来的な存在様態に陥り、人間存在の中で固定化が生じる。

第一に全体性を否定することによる独立化の運動の停止である。その運動は背反的な性格を持つため「あらゆる悪の根源」であり、全体性への還帰運動の通過段階として「あらゆる善の必須条件」となるものである。しかし背反さえできない人間存在は還帰もできないと同時に、「悪に堪え得ぬ者は善をも実現し得ない」のである。

第二に否定の否定による還帰運動の停滞は、原子的個人の出現させ個別性を重視するあまり背反の運動のほか意義を認めない。そのため「あらゆる善の必須条件」になるという通過段階としての背反の積極的意義は喪失してしまう。第一段の否定で停滞した人間存在はもはや「善に転化し得ない悪の根源」に一面的に固定されてしまうのである。悪の固定つまり根本悪は、「人間存在の真実を起こらしめないことにほかならぬ」と和辻は強調する。

以上によって我々は、信頼に応え真実を起こらしめることが善であり、この善を起こらしめないことが悪である、という単純な命題に到達した。 

倫理学〈2〉 (岩波文庫)

倫理学〈2〉 (岩波文庫)