王様の耳は驢馬の耳

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「倫理学」を読んで その十七

 ようやく最終巻の四巻目に入る。和辻はこれまでは諸国民が「為した」行為を考察してきたわけだが、ここからは「何を為すべきであるか」を見ていく。

世界を一つにするためには道徳教育

過去においてそれぞれの諸国民は「普遍的な人間の道」を実現しようと古来から試み、それぞれの仕方で国家を実現し、それを通じて「一つの世界」の形成に努めてきた。近代以降「一つの世界」という課題はいよいよ深刻化しており、諸国民が何を為すべきかという主要な問題もここにある。だからといって「歴史的・風土的負荷」から引き離して考えるべきではなく、また考えることもできない。「一つの世界」の問題解決に参与するには「いかなる国民もまず一つの国民としての人倫的組織の実現に努めなくてはならない」。それは「すでに成し遂げられた規定の事実」ではなく、「実践的に不断にこの実現に努め」、その存在を保たなければならない。そのためには諸国民固有の「既成道徳」によって人倫的組織に即した「行為の仕方」を教え込む必要があるのだ。

 通例「道徳」は上の既成道徳を指すが、それは初めから「普遍的な道徳」として立てられており、特有のものとしてではない。実際には歴史的・風土的制約によって「特殊な性格」を持ち多少の相違はある。しかし「「道徳の相違の自覚」は、人倫の道の実現の上に欠くべからざるもの」であり、諸国民を「うぬぼれ」から救い、「個性的制限」を超克する契機となる。それは「あらゆる国民に課せられた人倫的任務であって、その遂行によってのみ普遍的な人倫の道の実現における進歩が見られる」のである。

日本の道徳の特徴

古代日本は支那とは異なり社会の基盤を家族共同体にのみに置かず、どちらかといえば水田耕作に制約された村落共同体に置いた。それは古事記などにも現れている。村落は「顕著に感情融合的」な共同体であるため、「孝の徳の座である家の共同体」と密接に絡み合い、そのため孝を主要な徳とする儒教はすんなりと受け入れられ日本の個性的特徴となった。

とはいえ支那の孝と日本の孝とはまったく同じものではない。日本の孝は「父母と子との間の愛の尊重」であるのに対し支那の孝は「家長たる父への奉仕関係の重視」であり、明白に異なる。支那の孝は忠と常に紐帯があり忠の下位の徳として扱われるが、日本の孝は「家の中の問題」として扱われてきた。そこで問題となるのが孝を重視するあまり他の徳、つまり他の重要な人間関係を犠牲にしてしまう場合があるということだ。

「孝」の重視することによる弊害

親子関係は人倫的組織において「「一定の位置」を持ち一定の任務を与えられているのであって、その限界を超えた要求を持ってはならない」。それを超えてしまうとどうなるか。

「美風」があるためにかえって家の人倫的意義が充分に実現されないという逆説的な結果も生じ得る。かかる結果を避けるために、美風の実現に道徳的精力を傾けると、道徳的訓練が家の生活を中心として行われるようになり、それ以上に広い公共的生活での行為の仕方がゆるがせにされる、というような別の結果を招くことになる。これは前者よりも一層大きい弊害といわなくてはならない。わが国において家の制度が導き出した最も大きい弊害は、公共道徳の未発達である。これは家の道徳がいかによく実現されてもなお償うことのできない大損失なのである。

 和辻は上のように家の制度を「わが国固有の美風」として「道徳的精力を集中しようとした」ことを「確かな誤り」と批判する。家族共同存在への努力の負担を軽減することで、より高い公共的存在への努力を傾けられるようにすることが「利巧」で正しいやり方だという。

倫理学〈4〉 (岩波文庫)

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