王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「成熟と喪失 ”母”の崩壊」を読んで その二

エリク・H・エリクソンは著書『青年ルター』においてより高次の「父」なる神に直接的に結合することで、反対するローマ教皇やルターの父親への服従を無意味化しようと試みたという。プロテスタントはより強い「父」を求めてはいるが、聖母は認めていない。ルターが女性に対して付け加えた役割は「牧師の細君」になること、そうでなければ「牧師そのものになりたいと願うような女」であり、それがルターの描く理想の女性像である。

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「倫理学」を読んで その十八

今回で和辻哲郎の「倫理学」をとりあえず最後にする。ブログ筆者はここまでに三ヶ月弱の時間を読書とブログの更新に費やしたが、個人的に重要だと思うところ以外は触れていない。きっと見落としもあろうし、誤読誤解もあろう。もし読者が間違いに気づいてくれたなら、ぜひ訂正指導をお願いしたい。

さて、「一つの世界」を目指すための問題に参与するためにはそれぞれの国が歴史性と風土性を担った国家がその存在を保持し続け、そのための道徳教育が必要である。しかし国家固有の道徳である美風を重視するあまり、一層高次の公共的存在を軽んじることは誤りであることを和辻は指摘した。それを避けるために「国民の当に為すべき」ことは「革新」であるという。

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「倫理学」を読んで その十六

国土の自覚は国家の自覚

人間存在の空間性が人倫的組織として展開することで家や庭、村落や田畑などで具体的場面に表現されていることを見てきた。それらはそれぞれの共同体に「固有のもの」であり、この固有の存在を担っている自然の姿は「地面に一ぱいに敷きつめている」。これを「自然環境」と呼んでいるが、実際には「主体的共同存在の表現」なのである。その意味での自然環境は「多種多様な内容」を持ち、「複雑きわまりのない織物」のようにあらゆる共同体の諸段階を包含するものである。

従って、人々がこの多様性を統御すべき統一的な視点を持たないときには、この人間存在の具体的場面についての自覚に達することができないのである。

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