王様の耳は驢馬の耳

週一の更新で受け売りを書き散らしております。

「考えるヒント」を読んで

小林秀雄の「考えるヒント」からの抜粋。

文学はさっぱりわからん。政治に関して殊に印象に残ったところだけでも、残しておきたい。

 人性は獣的であり、人生は争いである。そう、彼は確信した。従って、政治の構造は、勝ったものと負けたものとの関係にしかあり得ない。人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかもしれないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通なことなのである。

獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みが無い者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しないはずがあるか。

大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が耐えられよう。

大衆が、信じられぬほどの健忘症である事も忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切り型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の眼を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。
これには忍耐が要るが、大衆は、政治家が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに、敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。

論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ちだしてみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。
理想国は空想にすぎない。巨獣には一とかけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう。