王様の耳は驢馬の耳

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「私の国語教室」を読んで その参

前回に引き続いて福田恆存評論集からであるが、今回は「世俗化に抗す」を取り挙げたい。

文章の冒頭に金田一春彦の「日本語は乱れていない」から福田は一節を抜き出す。

要するに私の言いたい事は、乱れている、というのは、決して現代日本語の特質ではないという事である。私に言わせれば、これこそ言語の状態である。もし、一糸乱れない整然とした言語があれば、それは成長のとまった言語であろう。

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福田は俗受けする気楽な現状肯定論であり、尤もらしい論証で読者になるほどと思い込ませるところがあると批判しつつも、「一糸乱れない整然とした言語があれば、それは成長のとまった言語であろう」という点には同意する。

その理由は「一糸乱れない整然とした言語」などを夢想する似而非合理主義を信じないからであります。 

「一糸乱れない整然とした言語」がはたして「成長のとまった言語」であるかどうかは議論の余地があろうが、前回にも触れたように、完全な表記法というユートピアを夢見てはいけないのだ。

福田は金田一の始末の悪さについて二点挙げている。一つはたわいなく騙される「庶民」に対し無知無学を許してしまうことと、もう一つは優越感を支える学問的知識の真価である。嘗ては洋の東西を問わず、学問には志があり、博覧強記であるだけでは学者とは言えず、志のない学問は真の学問とは認められなかった。「即ち、どこまで気付くかは二義的な事で、どこまで許すか、その志の高下深浅によって学者の値打が決まる」のだという。

試みに見れば、現代人の学び得る知識の量は、書籍の数、ネット端末の普及などにより、どの時代をも圧倒するが、歴史上の聖人賢者の志においては足下にも及ばない。金田一に限らず世の知識人たちは、

……学問とはおよそ縁の無い知識の行商に過ぎません。行商人に日本語が亂れてゐるか否かを裁く識見も資格もある筈が無い。 

故に気楽な現状肯定論しか出てこないのであり、曲学阿世とはこの事であるという。

私が言ひたいのは、國語問題に限りません。道德においても、單に人情の自然に照してその基準を下げ始めたら切りが無いという事です。……原則や理想といふものは人情の自然や社會の實情に合はぬばかりでなく、實は合はぬからこそ、その存在理由があるのです。

 誰でも実行可能であれば、それは理想とは言えないが、そういう単純なことが言葉の世界では解らなくなるのは、基準が見出せないからである。なぜなら、

それは言葉が生きものであり、人間と同様、基準を探し求める存在ではあつても、基準そのものを初めから與へられてはゐないからです。 私たちは言葉や日本語の發生に、人間や日本人の發生と同様、最初から立會つてゐた譯ではない。

なぜ月を月と、日を日と言ったのか解らないからだ。来年から日を月にすると制定すれば、それで通用するであろうし、それに抵抗する論理的根拠はない。そのほうが便利だとなれば、易きに流れやすい「庶民」はそれに従うだろう。「誰にも氣附かれぬ程度の間違ひに氣附き、それが氣にな」っても、

……多勢に無勢で引退るより外に手が無いのです。……國民が間違つたら、その間違ひに随つて國語を「改善」せよといふ考へ方も出て来るのです。

では、打つ手はないのかといえば、そうではない。

私達は古典を古典と自覺した瞬間、その中に基準を探し始めるのです。慣用と、それを支へ、それに支へられる美意識を自分のものにしようとし始めるのです。……私は過去を基準とせよ、鑑とせよと言つてゐるのであつて、過去の通りにせよと言つているのではありません。

 基準は過去にしかなく、他には何物も無い。部分的訂正は可能であるが、

基準、原則、或いは理想に關する限り、もし私達が一度過去を否定してしまつたら、もはや取り返しがつかぬのであります。

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一度でも否定してしまえば、さらに否定しない理屈はない。「革命は永久革命になる事必定」である。永久革命になる必然的理由は、我々に対して過去のみが基準となる資格と権利を持ち、これを否定すれば、「基準提出の資格と権利とは萬人平等になる」ためである。

誰しもが物事の是非の判断を下す資格と権利を、他者より優先されることを認めることができない。従って平等なる萬人の萬人による否定と闘争、つまり革命を永久に続けることになる。故に福田は革命主義に反対する。

革命主義と漸進主義との違ひは、一方が急激に、他方が漸進的にといふ程度の差にあるのではない。後者は飽くまで基準を過去に置くといふのに對して、前者はさうしないのみか、自分の基準によつて過去を否定するのであつて、それは基準そのものの否定になります。

取りも直さず、これはAとBとの基準の対立ではなく、基準は必要であるとの立場と不要であるという立場の対立に基づくのである。先にも触れたように「庶民」の易きに流れる性質は、革命主義の基準の廃棄による楽観的現状肯定論を歓迎する。

もし革命主義と漸進主義との違いが程度の差でしかないのであれば、基準がない以上、漸進主義は我儘な「庶民」の歓心を買うために、なし崩し的に革命主義に譲歩せざるを得ないのである。

 

福田恆存評論集〈第6巻〉私の國語教室

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