王様の耳は驢馬の耳

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日本に於ける理性の傳統を読んで その弐

 前記事で道理が近代開始の標識後であると、小堀桂一郎先生が著書において述べられた。では道理とは如何に把握され、どこまで浸透していたのか。

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 広辞苑による道義の定義は以下である。

道理

  1. 物事のそうあるべきすじみち。ことわり
  2. 人の行うべき正しい道。道義。

 もとは仏教語であり、慈円の「愚管抄」が「道理物語」とあだ名されるほどに「道理」が頻出する。この書は歴史的存在や現象には、常に道理が通底しているという観点で書かれている。12世紀頃の日本において既に道理でもって歴史を俯瞰しているところに瞠目すべきだろう。唯の一巻の書物をもって同時代の空気を象徴しているわけではないだろう。が、すでにこの頃の日本で道理が知識階級で強く意識されていたことの証左とは言えそうである。

 さらに慈円から少し遅れて生まれた明恵も、道理について鋭い洞察をしたことは注目すべき事柄である。即ち「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」である。「在るべき様は」と言い換えて可いと思う。小堀先生はこの言葉から「当為(ドイツ語哲学用語sollenの訳語)」の論であると見抜く。

 当為とは「当(まさ)に在るべきこと」または「当に為すべきこと」という意味である。カント哲学など筆者の理解を超えてしまうので詳説はできないが、小堀先生によれば、

人間に「汝為すべし」と命令しているのは理性である。直接の命令者は実践理性であり、その命令が実践理性から発することを認識する能力が純粋理性である、と解しておいてもよい。

 とにかく、sollenの認識を生ぜしめるのは人間の理性である、ということだそうだ。ではこの理性の根拠は何かと尋ねると、カントに従えば創造主、つまり神であり、理性をそう「在るべき様」に用いるには人間は自由意志の自立性を持たねばならないとする。そうなると理性を働かせるには神はいなければならないし、人間は「自由」でなければならなくなる。これが当為を基礎づける根拠として求められる「要請(Postulat)」の論理である。

 しかし日本には創造主はいない。明恵はここに仏教信仰を充てがった。信仰を篤くし励むことで、心が道理に融合させることができるとする。諸法の中に道理があるが容易にはわからない上に、仏も天も創造したわけではない。だが仏のみこれを覚(さと)り衆生に説いてくれるのである。

 では自由はどうか。これは、ある。自由とはFreedomやLibertyの訳語であり、明治以降からの輸入品だという通説だが、古くは臨済録に見られ日本では日本書紀からこの言葉はあるのだ。しかし精神の自由とも言うべき東洋的なる積極的意味は鎌倉時代からで、それまでは「威福自由(いきおいほしきまま)」つまり己の意の儘、端的に言えば我儘といった意味でしか使われてない。

 とは言えカントの自由意志なるものも、所詮は肉的欲求「wollen」からの解放程度の意味合いであろう。これも「ほしきまま」と同様に消極的意味しか含まないし、現代においてもそうである。であれば「要請」は充たされると言えよう。

 何れにせよ日本ではカント出現の凡そ550年前から「当為」の認識が、知識階級に限られるとは言え、為されていたことは驚くべき事実である。小堀先生の鎌倉時代をもって近代の始まりとする所以であるとの主張には強い説得力がある。事程左様に近代から現代に至るまで日本の精神史には道理(理性)が深淵に貫通しているのである。

 

日本に於ける理性の傳統 (中公叢書)

日本に於ける理性の傳統 (中公叢書)